臓器移植と人工中絶
             
1999.2. .28

レルネット主幹 三宅善信


▼臨床的脳死と法的判定上の脳死?

今週末の話題はなんといっても、高知赤十字病院で行われた「臓器移植」を前提とした脳死判定騒ぎである。一昨年秋に鳴り物入りで成立した「臓器移植法」が施行されてから十数ヶ月、2千万枚を超す「臓器提供意思表示カード(通称:ドナーカード)」が配布されたというのに、十数ヶ月の間、日本中で誰一人としてドナーカード所持者が脳死状態にならなかったこと自体(実際には、カード保持者で脳死状態になった人がいたが、カード記入上の些細なミスで無効になったケースはある)不思議なくらいだ。

そして、ついに今回、記入ミスのないカード所持者が「めでたく」も脳死状態になってくれたのだ。しかも、都合の良いことに、長患いで薬漬けになった臓器ではなく、突然発症するクモ膜下出血という病気によって、40代という比較的「活きのいい」女性が「脳死状態」に陥り、家族も臓器提供に同意したことから「活肝(いきぎも)のフルコース」を頂戴できることになったのである。もちろん、これは臓器移植を推進する側からの論理である。

しかし、今回、臓器移植法制定後初めてのケースということで、当事者(赤十字病院)側も慎重の上にも慎重を期し、マスコミも大騒ぎしたしたことから、法律が想定したこと以上のいろんな問題点がが浮上した。そのひとつが、「臨床的脳死」と臓器移植法に基く「判定上の脳死」との間の相違があげられる。26日、当該「患者」の主治医が「患者はもはや(不可逆的)脳死状態に陥った」と診断したことから、臓器移植法が定める手続きに沿って粛々と判定作業が行われた。2人の判定医が、@深い昏睡、A自発的呼吸の停止、B4ミリ以上の瞳孔の固定、C脳波の測定を行ったところ、@〜Bまでは要件を満たしていたが、Cについては「フラットではない(わずかに波形の変化が見られた)」という結果が得られたというのである。同じ「患者(脳死体というべきか)」に対して、2つの異なった判定結果が生じてしまったのである。診る人によって判定結果が異なるなんて、脳死判定もかなり怪しい技術であることが図らずも白日の下に晒されてしまった。

そこで「臨床的脳死」と「判定上の脳死」という齟齬(そご)が生じてしまったのでる。これでは国会における「恒久減税か恒久的減税か?」というのと同じ論議になってしまう。報道によると、「より正確を期すため」ということで、判定医たちは主治医が「脳死」診断を行ったときの脳波測定装置の感度を3倍に上げたというのである。そこで、「わずかに波形に変化が見られた(法的脳死状態ではない)」という第1回目の脳死判定所見になったのである。しかし、よく考えてみると、脳波測定装置の感度を上げれば上げるほど、いろんなノイズを拾ってしまう可能性が高くなるのが道理というものだ。病院の一室ということで、他の施設から完全に隔離されている訳ではないので、たとえば、隣の部屋(同じ電気系統)で電気のスイッチを入れたり、空調装置のコンプレッサーが作動したりしたときには、通常、電圧等がピクンと変化するというものだ。それに、あれだけ多数のマスコミ関係者が集まっているのだから、目には見えないけれど中継車からのマイクロ波(かなり強力)や携帯電話をはじめとする各種の電波が飛び交っているので、それが干渉し合うということも考えられる。


▼右や左のドナー(旦那)様

もうひとつの問題点は、臓器提供者の家族の心情への配慮とプライバシーをどういうふうに保護して行くかという問題である。これは、先の問題より、より解決が難しい。脳死判定そのものはより技術的な問題であるから、それだけ解決の方途が見つけやすいが、こちらはより注意を要する問題である。いくら「生前(?)の本人の意志」であったかもしれないが、現実の問題として、理屈の上では(不可逆的な)脳死状態とはいえ、現に心臓も動き、暖かい身体を「死んだことにする」のだから、家族には大変な決心がいるに違いない。しかも、今回のように、一旦、覚悟を決めてOKを出した後に、「まだ少し脳波が残っていました」なんて言われたら…。

先月末、私の知り合いの禅僧がやはりクモ膜下出血で急死した。その人は、生前、アイバンクに登録していたため、家族の同意を得て角膜を摘出することになった。角膜といっても、眼球を丸ごと抉り取るのである。想像してみるといい。人間の顔から目の玉を抉り取ったら、ちょうど、あの髑髏(どくろ)の大きな窪みの部分がスッポリと陥没してしまうので、死顔も様にならない。代わりのものを入れて造型するそうだ。しかも、せっかく提供した眼球も、移植する前にいろいろと検査をして、もし、エイズや肝炎などの病気が見つかれば廃棄処分になるのだ。これじゃ目の玉が浮かばれない。まるで、ゲゲゲの鬼太郎の目玉親父だ。幸い、その禅師の角膜は、2人のひとの目に移植され、「第二の眼生」を送っている。

厚生省の言うように、臓器移植を前提とした脳死判定には一点の曇り(データの改竄や情報の恣意的操作)もあってはいけないが、さりとて、全ての情報を公開することによって、せっかく善意で臓器を提供してくれた家族が、世間から奇異の目で見られたり、興味本意のマスコミから追い掛け回されるようなことは決してあってはならない。この辺が難しい。今回も過剰な報道ぶりに家族がナーバスになっていることが明らかである。また、まったく逆に、家族としては「提供する意志がない」にもかかわらず、医者や臓器移植コーディネーターあるいはマスコミの(「臓器提供しないのか?」という)プレッシャーが家族にかかることも問題である。これから、何例も脳死からの臓器移植が行われるようになると、必ずこういった問題が生じてくるに違いない。救急医療の現場も、ドナーカードを所持した重態患者が担ぎ込まれたら、最善の治療措置よりも、「後のこと(臓器摘出)」を考えて、なるべく「臓器の鮮度が落ちない」ような治療をされたりしたら、それこそ本末転倒になってしまう。

蛇足ながら、臓器提供者を「ドナー(donor)」と呼んでいるが、これは日本語の「旦那(だんな)」と同じ語源である。サンスクリット語のdanaから来ている。お寺を旦那寺といい、檀徒の家を檀家という。かつての乞食の決まり文句「右や左の旦那様、どうかお恵みを…」の文字どおり、旦那とはドナー(提供者)のことである。法隆寺の有名な「玉虫の厨子」に描かれている図柄が「捨身飼虎」である。「忘己利他(けっして「もう懲りた」ではない)」の菩薩行を行う大乗の行者が、谷底の飢えている虎を助けるために谷底に飛び込み、自ら虎の餌となるという凄まじいまでの仏道探求の精神を象徴するものである。臓器提供こそ、現在の「捨身飼虎」である。ただ、菩薩行はあくまで個人の意志によるべきものであって、けっして誰か(医者や移植コーディネーター)に促されてするべきものではない。単なる医学上の、あるいは技術上の問題だけでなく、精神的あるいは宗教上の問題(生死観)でもあるのだ。

日本においては、「死体」は単なるdead bodyではなく、先祖から子孫へと代々受け継いでゆくべき「遺体(親から遺された身体)」である。死体損壊罪という犯罪すらあるくらいだ。儒教的価値観を表わす言葉に「身体髪膚これを父母に受く。敢えて棄傷せざるは孝の初めなり」という言葉がある。その割には、仏教の影響で、遺体を焼いてしまうことが一般的だ。逆に、先祖供養などという概念のないキリスト教諸国のほうが土葬が一般的なのはどういうことだろうか?


▼「生」はいつ始まり、いつ終るのか?

さて、ここで今回のもうひとつのテーマである「人工中絶」について語らなければならない。なぜかというと、日米でこれほど態度の相反する事象も珍しい。脳死体からの臓器移植が日常茶飯事になっているアメリカのおいて、それよりは遥かに技術的には簡易な人工妊娠中絶については、極めて実施が難しいからだ。中絶を実施している産婦人科医が殺されたり、クリニックが放火されたりすることがしょっちゅうである。それどころか、中絶反対団体によって「全米中絶実施クリニック(医師)リスト」というものがインターネット上で紹介されており、しかも、「次はお前の番だ」と言わんばかりに、殺された中絶医の名前がリスト上で赤線を引かれて掲載されている。さすがに、ここまでやると、完全な犯罪行為だが、アメリカにはそれをさせる何かがある。

仮に、先祖の霊や死後の世界が「非科学的だ」ということで退けられたとしても、「人間のいのち」という時、いったいどこからどこまでを「生」というのかは意見の分かれるところである。近代以後の日本では、「おぎゃ〜」と産まれてから、心臓が止まって医者が「ご臨終です」というところまでが「人生」であるということになっていた。それが、昨今の医療技術の飛躍的な進歩が、「植物状態(大脳は機能停止しているが脳幹が機能しているので自発的に呼吸できる)」や「脳死状態(植物状態の逆)」といった「ややこしい状態」を創り出してしまった。どちらも、医療技術の介在なしには生きて行けないので、「操作されたいのち」であることには違いないが、一応、見た目には「生きている」ように見える。

逆方向にベクトルを向けると、赤ちゃんが「おぎゃ〜」と産まれる10ヵ月前から、つまり、男と女が睦んで受精した瞬間から人間であるはずだ。しかし、現行の日本の法律では、人は産まれた瞬間から人とみなされることになっている(妊婦を刺し殺しても、殺人罪を問われるのは一人分だけだ。胎児はそれがたとえ臨月であったとしても刑法上はカウントされない)。胎児は、法律上は「中途半端な状態」である。これも、おかしいといえばおかしい。

こちらも、死における植物状態や脳死状態同様、もっとややこしい事態を科学技術が作り出した。すなわち「体外受精」と「体細胞クローン」である。人のいのちにとって最も基本的な男女の間の睦み合いなしに、試験管の中で卵を精子を混ぜ合わせても子供は造ることはできる。この子供は、母の胎内に戻さなくても、全く他人の腹に入れても着床、出産させることができる。受精卵を冷凍保存しておけば、百年後に子供を造ることも可能だ。親が死んでから何年かしてから「腹違い」の兄弟が30人一度に出現して、遺産相続でもめるということも笑い事ではなくなった。もっと凄いのは、一昨年に実用化した「体細胞クローン」技術だ。これだと、父親のタネすら不要だ。まるで「処女マリアの懐胎」同様、神の領域に足を踏み入れている。


▼「死」は宗教の守備範囲?

問題は、このように科学技術的には、死も生もこれまでの常識よりも遥かに大きな領域に拡大してしまっているのもかかわらず、臓器移植の必要性から、死の時期を手前に戻そうとしていることであり、また、体外受精までして子供を造りながら、一方では、自然な男女間のセックスで出来た子供を年間数百万人で「人工中絶」しているこの国の現状である。

しかも、今回の臓器提供を前提とした脳死判定で大騒ぎしたマスコミは、年間、数百万人単位で「葬り去られているいのち」に対しては、極めて無関心だ。中絶を御法度にすれば、少子化問題なぞ簡単に解決する。風紀の乱れているこの国では、毎年、ベビーブーム間違いなしだ。南米のある国で、14歳の少女がレイプされ妊娠した。そこで、仕方なく中絶をしようとしたら「中絶(殺人)はレイプ(傷害)よりも重い罪なのでまかりならぬ」という裁判所からの沙汰があったくらいだ。それほど極端でなくても、男女間の合意に基づくセックスによって出来た子供の出産にはもっと責任を持つべきだ。

この国では、宗教は生の問題よりも死の問題のほうが守備範囲だと考えられている。僧侶が、ビハーラ(仏教式のターミナルケア)の仕事で末期癌の患者を訪問したところ、「坊主に病院内でウロウロされたら縁起が悪い」と、迷惑がられたという笑えない話もある。アメリカでは、病院や軍隊はもちろんのこと、議会ですらチャプレイン(専属の牧師・神父)がいる。日本では、産まれてから死ぬまでが医者(福祉行政)の領域で、産まれる前(水子供養)と死んでから(葬儀や先祖供養)は宗教の領域と、ハッキリと2分化され、お互いの間は相互不可侵的に棲み分けなければならないことになっている。したがって、病院では保健が効き、お寺(お布施)では保健は使えない。これが、この国の政教分離の中身だ。今はやりの「地域振興券」も、宗教団体への献金(お布施)には使えない。これが頂けると、お参りするのは年寄りばかりの神社仏閣は大いに助かるのだが、実際には、サイドビジネスや系列の商店をたくさん持っている特定の新宗教教団だけを利することになっているのは嘆かわしいかぎりだ。

これまで、本「主幹の主観」で何度も書いてきたように、日本は「もののけの魂幸きわう(アニミズムの)国」だから、使い古した縫針ですら「供養」しないと気が済まない国民性だから、当然のことながら、「堕胎したわが子」のことが気になって、水子供養が大はやりということになってしまう。そのこと自体、しょうがないことであるが、これに目を付けた悪質な霊感商法が後を絶たないのが困ったことである。そのうち、臓器移植の結果、不用になった(捨てられた)レシピアント(移植患者)の臓器を専門医供養する「心臓塚」や「肝臓塚」なんてものがどこかのお寺に建てられて、「針供養」みたいに定着するかもしれないと嘆くのは、私一人の杞憂であろうか…。読者諸氏の脳死臓器移植・人工妊娠中絶の問題に対する大いなるディスカッションを期待して筆を置きたい。

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