「似非終末論を論駁す!」
関西学院大学大学院神学研究科 近藤 剛(24)
E-mail: x1m705@kwansei.ac.jp
近年、様々な新興カルトが社会的問題を引き起こし、マスコミを賑わせている。とりわけクローズアップされる問題の一つに、カルトによる終末待望論がある。終末の待望とは、文字通り世界の終わりを望むことであり、世界最終戦争を求めることである。単に一人きりで座して待望するだけなら、他人に迷惑を掛けないで済むかもしれないが、自作自演で疑似戦争状態を起こしてもらっては困る。しかし、実際のところ公共の福祉に著しく反するような事件が多発しているのである。多くの専門家たちが指摘しているように、そのような問題を引き起こすカルトの殆どが、キリスト教の終末論を改竄して用いている。カルトは、キリスト教が伝統的に保持してきた言葉を(その意味内容を全く無視して)巧妙に操ることによって、さらに世界情勢に関するホットな話題を取り入れることで、世界の終末が間近に迫っているとの危機感と恐怖心を煽る。神学を学ぶ一学徒としてこの事態を看過することはできず、またレルネット主幹の三宅善信先生の意図(『主幹の主観』「堕落したウルトラマン 異安心タロウ」を参照)に賛同する意味も込めて、このホームページに寄稿することにした。よって本稿では、キ リスト教神学の立場からカルトの説く終末論を論駁し、その不毛さを明らかにしたい。
今日の世界は様々な困難を抱えており、危機的である。我々一人一人の微力では如何ともし難い。その意味で我々は無力であり、現実は絶望的である。人々が厭世的、刹那的になるのは当たり前であり、虚無的なエートスに覆われるのはやむを得ないであろう。そうであるから、このような時代がこれからも続いていくのだろうか、続けられるのだろうかと問われるのは、当然のことである。特に世紀の終わりには終末的恐怖に駆られることが多く、不安の深淵が我々を覗き込む。さらに滅亡への強迫観念が生起し、社会全体が狂気的なマスヒステリー状態に陥る。世紀の変わり目、世紀の終わりごとに現れるこのような社会状況は、<世紀末の病>と呼ばれることもある。我々はかくなる焦燥の念から、どのようにして逃れたらよいのだろうか。
ここまでが導入である。こういった真面目な切迫感こそ、実は似非終末論の格好の温床となる。カルトの教祖たちは、現代の問題をある程度まで正確に把握しながらも、かなり悲観的、絶望的な様子で描写する。というのも、そうすることで擬似的な閉塞状態を人為的に作り、無垢な人々をそこへ閉じこめたいからである。ここまでの準備が整ったら、後は一気に<ハルマゲドン=世界最終戦争>に突入することができる。つまり、人類滅亡の予言によって、現状を打開するよう説き伏せるのである。そして最終戦争後にもたらされる理想世界へと導くメシア、つまりそのカルトの教祖自身を崇拝せよと宣うのである。こういった荒唐無稽な戯言を、世紀末、ハルマゲドン、最後の審判、千年王国、ヨハネの黙示録、メシアなどのタームで脚色し、キリスト教以外の宗教(ユダヤ教の黙示文学や仏教の末法思想、ゾロアスター教の終末思想など)が持つ類語を極めて悪質な形で簒奪し、それらを継ぎ接ぎし、さらに<ノストラダムスの大予言>を詐術的に援用しながら、信者を説き伏せて恐怖心を煽っていくのである。
現状を容認できずに、根本的な変革、あるいは体制の転覆を希望する心理は、一言で言えば<甘え>以外の何ものでもないが、単なる妄想と一笑に付してしまうわけにはいかない。事実、このような心理を似非キリスト教的終末論によって煽られ、疑似宗教的権威にまで高められると、カルトはスタンピード現象と化し、局地的なハルマゲドンを自作自演で実行することになり、惨劇を生むことになる。我々は、その悪夢を現実に見たはずである(その根は未だに衰えず、不気味な触手を伸ばしているように思われるが)。悪用される終末論(手を変え品を変え様々な形で表れていることから、私は敢えてこれを<似非終末思想群>と呼びたい)が、キリスト教のタームを盗用している限り、我々は絶えずそれらを反駁し続けねばならないし、そうすることは信仰者の義務であると思われる。
カルトが終末論を利用するのは、現状に対する不満や鬱積を正当化するためであり、来るべき理想世界への幻想を抱かせ、現実逃避を理論化するためである。現実に対する嫌悪感は、現実の価値の否定につながり、信者の財産の放棄、その受け皿としての教団への寄進を容易にする。このような終末論の悪用を黙認したままにしておくと、宗教に関する基礎的知識を欠く人々が簡単に騙され続けることになるだろう。さらに1999年という大世紀末を目前にして、局地的なハルマゲドンが計画され、狂信的なテロリズムが発生するかもしれない。その結果としてまたしても、罪のない一般人の犠牲が予想される。そのような事態は未然に防がなければならないし、狂信的、似非宗教的テロリズムの台頭は断じて許されてはならない。私は微力ながら、ここで一つの防御策を提言したい。つまり、そのような馬鹿げた言説に洗脳されないようにするための防御策を、である。それは、カルトの説く終末論の破綻を指摘することであり、終末論に関する正しい知識を持つことである。はっきり述べておくが、ハルマゲドンという言葉に世界最終戦争の意味はない。これは『ヨハネの黙示録』第16章16節に出てく る単なる一つの地名(メギドの丘)にすぎない。ましてキリスト教の終末論は、カルトの目論見を裏付けるものではない、断じてあり得ない。その根拠を以下に列挙して、キリスト教の終末論の要点を示しておきたい。
第一に、終末論は歴史解釈と深く関わっている。歴史記述は時間に特定の幅を設け、その長さに具体的数値を求めることを言う。キリスト教においては、聖書の記述に基づいて歴史を描き、時間枠に明確な始点と終点を置く。神による天地創造が始点であり、終末と神の国の到来が終点にあたる。このような歴史観は、一般に「普遍史」あるいは「天啓史観」と呼ばれる。故に、終末は仮想された時間枠の終点であり、歴史記述を可能にする神話的表象であると言うことができる。だから、終末は人為的に実現され得るような一事件ではない。終末を特定の日時に予言するものは、似非終末論であり、そのような戯言を吹聴するのは似非宗教である。聞く耳のある者は聞くがよい。「『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。』」(『マルコによる福音書』第13章32節)
第二に、キリスト教の終末論はキリスト教に固有の終末論である。神学者のブルトマンが語るように、「終末論とは『最後のことがら』についての教理、或いは一層厳密には、われわれの知っているこの世界がそれをもって終りをつげるというできごとについての教理である。」(ブルトマン著、中川秀恭訳『歴史と終末論』、岩波書店、1959年、30頁)が、そのような終末論は世界の神話に普く見られる原初的な意識の反映であり、「宇宙論的終末論」と呼ばれるべきものであって、歴史化されたキリスト教の終末論とは、繋がりが全くないとはいわずとも、異なっている。ブルトマンの説明によれば、「終末論の問題は、期待されていた世界の終わりが到来せず、『人の子』が雲に乗って天から現れず、歴史が進行して終末論的な共同体が新しい宗教の形をとるにいたったという事実から生じた」(ブルトマン著、前掲書、50頁)のであり、キリスト教においては既に「実現された終末論」の如何が問題にされる。このようにキリスト教の終末論は、キリスト教信仰と不可分であると言える。故に、キリスト教的終末論を中心に据えて、世界の諸宗教に散見される終末論を寄せ集めたとしても、理論 上の補強になり得ないどころか、全く無意味であるということが明白であろう。諸宗教の終末思想を都合よく羅列し、恐怖心を煽るものは、似非終末論であって、似非宗教の仕業である。聞く耳のある者は聞くがよい。「『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「私がメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。』」(『マタイによる福音書』第24章4節から6節)
第三に、終末論は歴史哲学が主題とする進歩、時間、自由の問題とも深く関わっている。哲学者のベルジャーエフは、「歴史哲学は、その洞察の深さと意義の何たるを問わず、必然的にメシヤ的、かつ終末論的である。人類の昔からの宗教的主題、すなわち歴史の完成という主題は、おおい隠され、多かれ少なかれ修正されたかたちのもとに存在しているのである。彼岸とか超越的なものとかいうと、なんでも否定するひとびとでも、多くの出来事に対して、いかなる意味づけも拒絶するまでに行っておらず、このひとびとのあいだでは、その思想は未来において実現すべき完成というかたちを取っている。」と述べている。その限りにおいて、「時間の中における有意味的な運動としての歴史は、メシヤ待望の創造物であり、ロゴスの受肉である。」と言うことができ、歴史は必然的に終末論的性格を負っていると主張され得る(ベルジャーエフ著、氷上訳『歴史の意味 人間運命の哲学の試み』、白水社、1960年、277−293頁から引用)。
ベルジャーエフによれば、終末論は徹頭徹尾、歴史哲学の問題である。終末論の意味するところは実に深遠であり、難解であり、不可解なのである。この事実を知って頂ければ、似非終末思想群を見抜くのは簡単なことであると思う。本来ならば、ここで終末論と進歩、時間、自由との関わりを論じたいが、それは他日に期されるであろう。そこでベルジャーエフの格調高い言葉でもって、結論に代えたい。「終末は、懸念や恐怖の中に、あるいは甘い希望の中に待たれてはならない。それは人間の創造の表示としての準備を要求する。さらに深い観点から言いうるのは、創造のあらゆる行為、精神のあらゆる作品は、隷属、敵意、確執の世界に勝利をうちたて、そしてかかる世界は終わりを告げ、自由と統一の雰囲気に場所をゆずるにちがいないということである。したがって、神の国は精神の創造的行為の一つ一つの中に気づかれずに実現しているのであり、そしてわれわれがそれに気づくのを待っているのである。」(ベルジャーエフ著、前掲書、287−288頁)。
聞く耳のある者は聞くがよい。「『神の国は、見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」(『ルカによる福音書』第17章21節)
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