真宗大谷派(東本願寺)の場合 |
真宗大谷派は、伝統仏教教団の中では珍しく、「臓器移植法案」の国会審議の際にも、また、この度の「脳死臓器移植」第一号実施の際にも、教団の代表者(宗務総長)名で、教団としての公式見解を表明している。以下、両方を紹介する。 ▼「臓器移植法案の衆議院可決に対する声明
1997年4月25日
真宗大谷派宗務総長 能邨英士 脳死を人の死と位置づけ、脳死の状態の人からの臓器移植を認める法案が衆議院で可決されました。人々の中にある様々な医療不信や脳死の判定に対する危惧が払拭されないままに、強引に脳死という状態にある人を死んでいる者としてしまう脳死=個体死とする法案には、全く納得できません。また、臓器移植についても、移植をすすめようとする人たちが言うようなすばらしい医療技術と果たして言えるでしょうか。 私たちは、人間が生きるとは何か、そして死ぬとは何かを求めつづけております。 いのちのはたらき、それは人間の想いをはるかに超えたものであります。それを人間の都合によって「生」死」を決定し、更に国の法によって法令を規定することには重大な問題をはらんでいます。そこにはいのちを対象化し、モノとしか見ず、その結果、役に立つか立たないかというところでいのちを扱い、生の拡張のみを事とするエゴイズムがあります。 私たちは、人間の都合によるいのちの選別を止めて、改めて自我の思いを超えたいのちの尊厳に思いをいたすべきであります。 この法案が衆議院で可決されたことに遺憾の意を表するとともに、もう一度臓器移植をめぐる問題について、我々一人ひとりの生きることの意味を根本から問いかけられた問題として、充分に論議される場が確保されることを願ってやみません。 ▼初めての脳死臓器移植についての見解
1999年 3月16日
真宗大谷派宗務総長 木越樹 このたび、臓器移植法制定後はじめての脳死臓器移植が行われました。 私たちは二年前に臓器移植法案が衆議院で可決された際、宗派としての声明を出し、「遺憾の意」を表明いたしました。それは「人々の中にある様々な医療不信や脳死の判定に対する危惧が払拭されないまま」、臓器移植を可能とすることを目的に、脳死を「ひとの死」と法律で定めるという強引さの中に、「人間の都合」でいのちを選別し、人間の生き死にまでも決めることを是とする人間の傲慢さを感じたからでした。 今回の脳死臓器移植は、脳死と判定された方が臓器提供の意思を示したドナー・カードを持っていたこと、そして家族の方々がその意思を尊重して臓器提供に同意したことで実現しましたが、そのことで脳死臓器移植という医療そのものが必要以上に美化されるべきではありません。 それは今回、脳死判定の過程で無呼吸テストが脳波検査より先に行われるなど、手続きにミスがあったことや、脳死患者の家族のプライバシーの保護という問題が論議されていることにも表れています。しかし何よりも、脳死臓器移植は「ひとの死」によってはじめて成り立つ医療であるからこそ、ドナーの家族やレシピエント、また医療に携わる医師、そしてわれわれ人間の心に葛藤を生み、深い苦しみ、悲しみ、痛みを呼び起します。生きた臓器を「部品」と見たり、脳死した人を「臓器の供給源」とみなす発想を生み、はては「いのちの選別」や「臓器売買」などの犯罪へと人間を誘い込み、いのちの尊厳を見失わせる危険性を孕んでいます。 現代医療の発達には目を見張るものがあり、私たちの多くはその恩恵を受けて生活しています。しかしまた生死は人間の事実であります。死を遠ざけ、生のみを延長する努力によって、死を克服するということはできません。むしろ私たちは「自我の思いを超えたいのちのはたらき」(無量寿)に生かされています。その我が身に気づき、そこに「いのちの私有化」をしてやまぬこの身が懺悔され、生も死も与えられたものとして引き受けられるとき、かけがえのない今この時の「いのち」の意味に目覚めることができるのです。そしてこのような「いのち」の意味に出会わない限り、私たちの生は、いくら目を背けてもいつか必ず訪れる死の影によって脅かされ続けることになります。 今回の脳死臓器移植は、私たち一人ひとりにあらためて生と死の意味を問いかけています。この尊い縁をとおして、広くこの問題が論議され、私たちの間に「いのちの尊厳」と「生死」の豊かな意味が回復されることを願ってやみません。 |
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