浄土真宗本願寺派(西本願寺)の場合

浄土真宗本願寺派では、今回の「脳死臓器移植」実施第一号に対して、教団としての公式の見解の表明は行わなかった。しかしながら、このことが、同教団のこの問題に対する無関心と考えるのは大きな間違いである。ビハーラ(仏教式のターミナルケアのためのホスピス)を最も積極的に実施している同教団では、教団内において長年にわたってこの問題について取り組んできたことは、同教団内の刊行物がたびたびこの問題について詳しく掲載していることからも明らかである。ただ、「教団内に賛否両論があるこの問題について教団としての見解を表明することは不適切(豊原大成宗務総長)」との判断で、公式見解を表明していないだけである。以下、同教団内の刊行物を中心に、浄土真宗本願寺派での議論を紹介する。


◆シリーズ◆ 脳死は人の死か      


(1)臓器移植法案 衆院可決をめぐって
(2)「いのちの問題」「生命観」についての論文
(3)念仏者よりのコメント
続(1)浮彫りにされた日本人の死生観

                  
(1) 臓器移植法案 衆院可決をめぐって  

1997年6月17日、衆院は「臓器移植法案」(中山案の参院修正案)を可決した。これは、臓器移植に関してのみ「脳死」を「人の死」と認めるというもので、「出来るだけ早く臓器を取り出す便法」として法律が「人の死」を決定するというものである。

条件付きで脳死者からの臓器移植を容認した「臨時脳死及び臓器移植調査会」(脳死臨調)答申から5年。移植医や患者にとっては長い移植の空白を埋める、歴史的瞬間であったに違いない。しかし、一人ひとりの生死の問題を、一律に決めてよいのだろうか。1987年スウェ−デンで脳死を人の死とする法案が採択されたが、本会議の討論では、60人の議員が5時間にわたって議論をしたという。一方、衆院本会議は議論が5人で、一人わずか5分から8分だったとのこと。(参院修正案に対する審議は3時間半だったと報道されている。)これでは、充分に審議されたとはいえない。

脳死とは、呼吸中枢などをつかさどる脳幹を含むすべての脳の機能が喪失し、二度と回復しない状態をいい、脳死移植は、この状態で臓器を摘出して移植する。心臓停止後の摘出より臓器としての活性度が高いという。もし、法律で認められ、移植が始まったら、医師の裁量で助かる患者も脳死・心臓死にさせられる危険が出てくる、という懸念の声も高い。いずれにしても「心臓停止による死」から「脳死を人の死とする」概念が導入されるにしても、個々の死のありようを全ての人に強制することは出来ない。人はだれでも個人の宗教、人生観、哲学によって死生観も違うからである。

日本では、瞳孔の拡大、脈拍と自発呼吸の停止という死の三兆候による心臓死が、社会通念としての死であった。死をどの時点で受容できるか、意見は様々であるが、識者はマスコミのインタビュ−に次のように答えている。

 「死を大事にしない文化、穏やかな死を守ろうとしない文化は、人の心を索漠たるものにする。採決を見て日本の『生と死』の文化が強引な科学主義、合理主義の側に偏倚した印象をうけた。私は移植医療に反対するのではない。死にゆく人と家族の尊厳と善意を、第一に優先する医療システムをつくることが急務だと思う。そのために移植医側でなく、救急医学会と集中治療医学会が中心になり、生命倫理、終末医療看護、法律、脳死者を看取った体験者による、「脳死の人の尊厳と医療のあり方に関する検討会」を発足させることを提案したい。」(柳田邦男 ノンフィクション作家)「それでも『脳死は、死ではない』といい続けたい。脳死を死とする社会的な合意が出来ていないのに、臓器移植をやるために法律で人の死と決めていいものか。脳死を人の死と認める理由の一つに、人間の肉体は機械であり、精神は別のところにあって、それを統一するのが脳だとする考え方がある。だが移植をすれば、拒絶反応が起きる。これは、身体の一部も人格をもち、部分にも全体が宿っているということであり、脳を肉体と精神を統一する器官であるとは言えない。「死」は生理的な事件ではなく社会現象だ 。肉親は昔から、魂がよみがえってくることを願い、死の判定を少しでも遅くしようとした。息が出来ず、脈がなくなったところではじめて死を認識する。最近は、『脳低体温療法(別記参照)』というものもあり、回復できないと診断されている人も、将来は回復する可能性があるかも知れない。臓器移植そのものまで反対するつもりはない。中山案も最初は、家族の承諾だけで移植を認めていたが最終的には、本人の承諾それも書面による意思表示が必要として、脳死臨調の答申よりも厳しくした。一つの進歩だ。」(梅原猛 哲学者)

 この他にも「臓器移植法」が成立したことを受けて、マスコミ各紙は各界識者の声を報道した。その主なものを紹介すると− 「法では脳死問題を臓器移植の対象でしか、議論していない。移植目的以外で脳死をどうとらえるのか」森岡正博・大阪府立大教授(生命学)、「<脳低体温療法>の成果や細胞レベルの研究の進歩で、『不可逆的機能停止』が確実に判定できるのか。ドナーが本当に脳死だったか、というトラブルが必ず起きる。」山口研一郎「現代医療を考える会」代表(脳外科医)、「駆け足審議による成立は遺憾。『人の生と死』をどうとらえるかという国民的論議が不十分、社会的合意も出来あがったといえず残念だ。」廣瀬静水・日本宗教連盟理事長、「わずかの審議だけで採決をしたのは拙速で遺憾だ。二つの死の概念を持ち込み、本来客観的事実であるべき死の概念になじみにくい。」坂本秀文・大阪弁護士会長、「日本ではインフォームド・コンセントが客観的に行われているとは、いいがたい。ガンの告知さえ十分でない日本では移植医療は早すぎる。」森功・医真会八尾総合病院長(医療事故調査会代表)、「移植医療を取り巻く環境は、ここ数年変化している。一度承認した とはいえ、新たな倫理委のメンバーで再度議論する必要がある。」中川米造・佛教大学教授(生命倫理) 

賛成派の中でも、

「心臓移植実現の一歩と受け止め、期待するが、審議不十分なまま、可決されたことで、広く国民の祝福を受けた医療として定着するか疑問。」小林登・「全国心臓病の子供を守る会」会長、「臓器提供を希望する人には、死のあり方の選択を迫られる。」田中紘一・京都大学教授、京大病院移植外科 

などの声がある。

また、 「ドナー登録する人は、脳死まで医者がちゃんと治療してくれると考えるが、関西では移植のために救命治療を打ち切ったり、承諾外の臓器を勝手に摘出したりした事例がいくつも起きた。今度の法律では歯止めにならない。」岡本隆吉「脳死・臓器移植による人権侵害監視委員会」大阪代表

との懸念の声もあった。

ところで、こうした動きに対して宗教界は、「医療不信や脳死判定に対する危惧が払拭されないまま、脳死=個体死とする法案には全く納得できない」「脳死をもって死と認めることには疑義がある」「生と死の考え方は、人それぞれや、宗教の教義、伝統によって異なる」と、法案に反対や疑問を示す声明を出し、参院に慎重な審議を求める動きを起こした。また「臓器移植は布施行として認められる」との見解もあった。それでは仏教者として、どう取り組むべきなのか。個々の意見は、様々であるが、いずれにしても私たちは、仏教の生命観にたって、「いのち」をめぐる現代社会の問題に関わっていかなくてはならない。

 1993年に基幹運動本部より出ている『平和・靖国・生命・環境問題研修カリキュラム、試案』は「医療現場の問題と脳死・臓器移植」(大単元生命倫理)について次のように述べている。

《脳死判定は医師がするにしても、脳死を人の死と認めるかは、個々人が決めることであり、医師から強制されることではない。また、臓器移植に対しても本人の生前の意志(リビング・ウイル)がまず尊重されなければならない。そのためには、医療現場に患者およびその家族として関わるとき、必ず、インフォ−ムド・コンセント(医療現場において医師は、患者にその病状を説明し、その治療や処置の内容を知らせ、患者の同意を得た上で治療にとりかかること)を受ける必要がある。それでも「『精神障害』者」や「身体障害者」など、社会的「弱者」にしわよせが行かない保障はない。生前の意志の確認も、社会的「弱者」にどうするかは、脳死臨調答申でも欠落している。大事なのは、自分の生と死を、法律によって決められたくない人の自由意志が尊重され、その人が特別視されない社会環境が確保されるかと言うことである。欧米の人権運動は、患者の側の問いかけから医療現場を変えたが、われわれは人権的な視点から脳死立法の動きを見守ることが必要だ。次に臓器移植をすれば助かると、わずかな延命策であっても患者や家族にとって延命を願わない人は少ない。しかし臓器移植は、他の 人の死を前提にしており提供者の善意に基づくものである。諸外国では、すでに臓器が不足し、移植を待つ人が圧倒的に多いのが現状で、ベルギ−では、生前に臓器提供拒否の申告をしていない人は、医師の判断で、他人に臓器移植できる法律を作っているが、そこに「他人の死を待つ」私の無明の問題がある。仏教では、人間存在を死すべきものとして理解するが、教典の注釈中に病を得て、不老長生の「仙経」を学んだといわれる曇鸞大師は、菩提流支の教示により、長生きしても、死すべき自己であることに目覚め、その仙経を焼き、浄土の教えに帰したとされている。つまり、本当に大事なのは、単なる延命ではなく、生死するあらゆる"いのち"が、仏智に照らされているという、いのちの尊厳に目覚めることである。》


(2) 「いのちの問題」「生命観」についての論文 

 「生命の尊厳」が叫ばれるようになって久しい。では、生命とは何なのか。そして、尊厳とは、生命観とは…。分子生物学者の本庶佑氏は、「物質の複合体としての生命という認識の上に立って、社会的人間の生きざまについて考察するところに宗教は再生し、そこにまた重大な存在意義がある」と言っている。そこで、「いのちの問題」「生命観」について、浄土真宗本願寺派教学研究所教授の論文を要約した形で紹介する。

※肩書きは論文発表当時のもの。




▼何のための「いのち」か        

 
大峯 顕(大阪大学名誉教授・龍谷大学教授・教学研究所教授) 

脳と心・意識とは

「生命の尊厳」が論じられるが、生命とはなにか、尊厳とはなにかを問い直すことなくしては「いのち」の問題の解決にはならない。生命の真相に肉薄しうるのは、知性による分析のいとなみでなく、精神もしくは心の直感である。この生命の内的究明こそ「宗教」とよばれるもので、生命そのものの自覚といえる。生命は、一つ一つの独立した個体でもあるが、その個体性の根は意識の働きである。人間の意識は、脳と密接な関係にあるが、哲学者ベルグソンは、意識の中には、脳の働きに対応した働き以上の無限の大きな働きがあることを明らかにした。記憶という意識の働きは、脳によって規定されずに独立しているのである。つまり、脳は思考や感覚の器官ではなく、人間の精神を現実世界に向けさせるための器官なのだ。彼は、脳の働きと心の働きとの関係を、オーケストラの指揮者の棒の動きとシンフォニーとの関係に例えている。

 脳は、ただ精神の働きの中から、現世の生活に適応するに必要なものだけを選ぶ働きをする。そして、われわれの注意を現実生活の面に、たえず釘付けにしている。それゆえ、意識の大部分は、いわば無意識の世界に追いやられて、そこで生きつづけているのである。われわれの精神は脳の働きを越えているのだ。人間が死ねば心も無くなるということを信じる人々の唯一の根拠は、身体が滅びるという事実でしかないが、心の働きの大部分が脳から独立しているということが確認された以上、我々の心が死後もあるということは、根拠のない迷信だとして、片づけるわけにはいかない。生命は自己自身を超越する

 「いのち」と呼んでいるものが、もしこの世の個体の生命だけで終わるとするなら、およそ宗教なるものは不可能になる。しかし、「いのち」が、この世だけに見えるのは、自然科学が代表する生命の分析に対してだけである。生命は外から捉えるだけでなく、生命それ自身の内から、直接に捉えることもできる。生命はそれ自身の内から捉えられたとき、初めてその真相を我々に対して示すが、宗教とは生命のこの内的な直接理解に他ならない。生命を内から見るならば、生命の本質は自己超越という無限の運動にあることがわかる。「生命」という漢字の「生」には、「生まれる」「生む」「生きる」という意味と同時に「成長」という意味が含まれている。他方「命」という語の核心には「使命」「命告」「召喚」という意味があるように思える。生命を生命自身の内から捉えるとき明らかになるのは、生命それ自身の構造に含まれている「成長」と「召喚」という二つの性質である。つまり、生命は、自己自身の現状を保持する静止のことでなく、より大きく、深い次元からの召喚を感じて、この深き大いなる次元へ自己自身を越えてゆく成長の運動のことなのである。われわれが個体として生きてい ることが、すでに自己超越の運動の結果なのである。トルストイは「人生論」の中で「母親の胎内にいた児が出生してくるのは、胎児の内にある生命が、もはや胎児という形態にとどまれなくなったからだ」といっている。われわれは、今、ここに個体として生きている。しかしこの形式は、生命の究極の目的でなく、中途の段階に過ぎない。それゆえ、個体としての自己の生命だけが生命の全てであり、この世の存在が生命の最高目的という自我中心的な生き方は、生命それ自身の要求にそむいた生き方であり、真に生きているとは言えない。そのとき生命の運動は、そこで停止し、生は固定した死と変わってしまう。この世の生の充足、個人の幸福と長命だけを目的とする生き方では、人生の空しさ、一種のニヒリズムを根本的に克服できない。宗教的信仰とは、人間が自我中心の生き方を転向して、生命それ自身の本来的な方向に従って生きることである。


宗教的信仰に生きるとは   

偉大な世界宗教の開祖たちは、それぞれの言葉で、この大きな生命の運動の自覚が「いのち」の実相であることを教えている。「教行信証」の次の言葉は、このような生命の自己超越の運動が、二つの方向をもっていることを示している。「つつしんで浄土真宗を案ずるに二種の回向あり、一つには往相、二つには還相なり。」「往相回向」とは、すべての個体的生命は、如来の本願力と呼ばれる、大いなる生命世界に往生せしめられるという、生命そのものの運動のことである。往生浄土とは「いのち」が、個体の形式を脱して、いかなる形式をもとらない生命そのものの根元的な在り方に還えることにほかならない。信心決定と同時に起こる「即得往生」とは、この世の生死の中にある個体において、個体以上の命が、その最初の閃光をあらわしたことであり、その生命の運動の終点が「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」という成仏にほかならない。真宗教義の用語で「浄土」とか「往生」とかいうと、神話的なおとぎ話のように聞こえて現代人の心に響かない現状であるが、教学が、伝統的な概念の説明になっている限り、この現状打開は不可能であろう。生命の自己超越は、「往相回向」だけでなく 、普遍的生命が個体の世界に還ってくる「還相回向」の運動をももっている。この「往還二回向」(『ウルトラマンに観る親鸞思想』)の思想こそ、浄土真宗の独創点である。往相回向とは、現世(個体)から浄土(普遍)へと超えてゆく如来の大生命の海流である。自我のはからいを捨てて、如来を信じたすべての個体は、この自然の生命海流によって浄土に運ばれ、普遍的な生命そのものの仏になる。しかし生命海流は、そこで消滅するのでなく、一転して、浄土から現世へと流れ還る還相回向の海流となる。二つの海流があるのではない。往相も還相も共に一つなる如来の生命海流の二つの方向である。われわれが一度きりの人生とか、死ねばそれまでの「いのち」とか、呼んでいるところのものは、本当は、この大いなる如来の生命還流の上に浮かんでいる一つひとつの波頭だということが知らされるのである。

『現代社会と浄土真宗』教学研究所発行(1997年3月)掲載論文より(要約)




▼生命の尊重さるべき根拠について − 生命倫理の原点を問う −     
              上山大峻(龍谷大学教授・教学研究所教授)

現代における「生命尊重」の帰結するところ

「人命は地球より重い」と、何よりも優先する価値とされるが、本当に認識されているのだろうか。「生命の尊厳性」についての思想的根拠づけが行われないまま、わが国に於いても生命にかかわる問題が進行している。今、生命を尊重する根拠となる共通概念は、欧米で確立されてきた「人権」又は「人道的」の言葉で表されるもので、生命倫理や戦争抑止の論理は、人権、人道の思想に同調しているようにみえる。そして現代の人間観や倫理観は、これが世界的普遍性をもつものと認知されている。しかしこの概念は、いわば言葉のみの空虚な概念である。そこに、脳死是認や臓器移植などの生命操作の遂行に疑問をいだかせる原因があるのではないか。

人間の価値を有効性で考えようとする方向は、生命そのものが、なぜ平等に尊重されなければならないかを、納得させるものでなく、時には有効性のない人間を排除する危険な思想に展開する。この考え方は臓器移植など医療の領域にまで及ぶ可能性がある。九州大学倫理委員会が条件付き承認の審査結果を公表した直後「日本脳マヒ者協会福岡青い柴の会」の代表者らは、生体部分肝移植に反対する記者会見の中で「いずれは、対象が我々障害者に及んでくる危険がある」と述べた。尊厳性を考慮せず、機械として見なす考えが窺える。今日の生命倫理の問題は、人工妊娠中絶、新生児安楽死、末期患者安楽死、臓器移植であるが、前提になるのは「幸福追求の権利」「自己決定権」だ。しかしこの前提で解決するとすれば「胎児を生命として認めない」「有用な生命を優先する」との生命観に立たざるを得ない。


欧米における人間観

 「人権」を規範として遂行される「生命尊重」のあり方は、「生命の切り捨て」と表裏をなすものだが、そのあり方は、納得できる生命の尊重ではない。その理由は、欧米の人権思想の背後にある生命観、あるいは生命尊重の考え方自体にある。第一は、人間のみが尊厳であり、尊重されるべきで、動物など他の生命は尊重されるべき対象になっていない。思想の源泉は聖書であり、現代でもキリスト教文化圏では常識となっている生命観である。第二には、思考することを人間の必要条件とみなして、人間及び生命の価値を認める点である。考えることのない脳死状態に生命は認めず、価値もないことになる。第三に、正義や善の遂行のためには、反対する生命の殺害は正当であるという考え方で、生命よりも優先される。そこでは聖戦は是認され、より多くの人命を救う「人道的」戦いは肯定される。例えば十字軍、近くはオウム真理教事件などである。


仏教における生命尊重の論理

《生命は、すべてに優先して尊重されねばならない》仏教では、生命を殺害することの禁止を仏教徒の守るべき制戒として、最も重視する。「不殺生戒」がそれである。仏教が、人間がいかに生き、いかに幸福を実現するかを課題とする宗教であるのに対して、ユダヤ教やキリスト教などの一神教が神の命に服すことを主題とする宗教であることの違いによる。

《自己の生命は最も大切、それは他においても同様》この論理の前提にあるのは、生きたいという本能的生存欲である。他の生命より、自分及び自己に所属するものの生命が大切とする、自己中心的な自己愛の是認である。これは我執として否定されるが、誰もがもっている共通の欲求だ。

釈尊は、その事実を逆用し、自他同一視の論理を適用し、自己愛から普遍的な生命尊重の認識へと転化させたのである。

《尊重すべきは、人間の生命だけでない》これこそ仏教が人間のみでなく、一切の生命を同等に尊重する論理的根拠である。自他の区別が本来無いとみる仏教の叡智によって種々の生命の間にもうけている、人間とそれ以外の生き物との優劣、人間における善悪・老若・賢愚・男女などの差別観を破って、いかなる生命も平等であるという認識をうながしている。


なぜ生きなければならないのか

「もう生きたくない」「生きる意味がない」と考えるものに、どのように生きる意味を納得させ、どのように生きる意味を見いだしたらよいのだろうか。《人間としての生を得ることの難しさの認識から、生あることの貴重なることを知り、全うする意味を自覚する》《独自の人生歴を、代替できない価値として認識し、残りの人生を全うする》《生命に仏性があり、仏になる可能性をはらむ存在であることを認識し、尊貴なる生命であると自覚し、生を全うする》これらは全ての人に生命の尊厳を説明するものとしては、普遍性にとぼしい。そこで、私にかけられた他からの願いをうけて、私の生きる意味が与えられる《生きることを願われている生命》の尊厳性がある。「歎異抄」に「弥陀の五刧思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」とある。仏にすべく絶大の願いが、かけられていることを認識して、自らも菩薩同等の価値を得るのである。ここに、浄土真宗信仰のなかで成立した、究極の生命の尊厳性を認めることができる。


脳死の尊厳性とは

自らの思考能力を失っている脳死の人の場合はどうであろうか。欧米の人間観によれば、既に尊厳性は勿論、人間として認められない遺体ゆえ、そこから臓器を取り出して有用な利用をしようとする発想がおきる。ところで最近、このような生命観に一石を投ずる重要な提言がされた。柳田邦男氏が脳死状態を経過して逝ったわが子を看取った体験の中で発見した生命観である。氏は、死というものに、「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」があり、それぞれが異質であるとしている。一人称の死とは、自分自身の死であり、三人称の死は、客観的な第三者から見た死の認識である。しかし、二人称の死は、親や夫婦など、生活・精神面からも生命を共有している者から見た死で、それは第三者がする死の認識と全く異質なものであるという。脳死のわが子が、すでに死んでいると科学的に説明されても、何ものにもかえがたい絶対的な価値を認めているのである。それゆえに、第三者からであっても、その脳死の人の尊厳性は、あくまでも認められなくてはならないのだ。ここで明瞭になってきたのは、欧米的生命観と日本的生命観とが根底において異質であるということだ。先端医療を接点として、 双方の生命観の軋轢が避け得ないものであるとすれば、時間をかけての検討と、本質を見極めた上での調和が計られるべきである。臓器移植の問題も単純に「是か否か」でなく、生命観の異なる日本人にも納得して行われる道が、模索されるべきである。

そしてその責務は、その日本の生命観を形成した仏教を知る仏教者にかかっているといえよう。 

『現代社会と浄土真宗』教学研究所1997年3月発行掲載論文より(要約)




(3) 念仏者よりのコメント  

1968年8月8日、札幌医科大学附属病院で、日本初の心臓移植が行われた。後日、移植を受けた少年のもとに、全国から激励の手紙が届いだ。その背景には、心臓が生命の象徴と信じて疑わなかった人々の死生観がある。少年は、長くは生きられなかった。しかし、移植手術は、死の判定に大きな波紋を投げかけた。あれから29年(*1)、医学は、確かに進歩したが、果たして日本人の死生観は、変わったであろうか。念仏者としての思いをうかがった。(*1)本原稿発表当時



▼「脳死」少し裏側を覗いてみれば  
                        橋本 和也(学校教諭) 

「脳死」問題は臓器移植と抱き合わせで語られてきた。マスコミの報道はいつもこうである。「移植」でしか救えない人が、日本にも大勢いる。しかし日本では「脳死」が公認されていないため、海外で手術をうけるしか道はない。ここで冷静さを失ってはならない。「脳死」問題が純粋に人の生死の問題なら、それとは直接に関係のない臓器移植と関連させて語ることは不合理なはず。いいかえると、臓器移植という他からの要請が「脳死」公認を進めようとしていることが問題なのである。

 さて、マスコミ報道でよく目にするものに、臓器移植の手術をうけるために、海外に出かけていく幼い子どもたちのニュ−スがある。大半のマスコミは、いわゆる「脳死」公認派で日本の現状を外国に頼りっぱなしであるとし、「日本人はエゴイストだ」といわんばかりで、これも実に不可解だ。

「脳死」判定の基準を見ると、日本脳波学会(1983年)では、15才未満は「脳死」判定の対象外、厚生省の竹内基準(1983年)では、6才未満を対象外にしているから、日本で「脳死」が公認されたとしても、あの子たちの身体に見合う臓器は入手できるのか。また、なぜ海外では幼児が移植手術をうけられるのか疑問である。立花隆氏は、脳波学会基準が変更され、厚生省基準が出来たことに対して「私はガッカリした。私の疑問点など解消されていなかった、この新しい基準によって、疑問が拡大されたともいえる」(「脳死」中央公論社)と、厚生省基準に対し、正面から批判している。

 「脳死」公認推進派は、すでに、「脳死」問題を解決済みだとして、臓器移植推進キャンペ−ンが進められているが、彼らは、元来「脳死」公認推進派というよりも、臓器移植推進派なのである。かれらが「どうせ助からないのだから、助かる見込みのある人のために臓器をもらっちゃおうよ」といえば話は分かりやすくなるが、そこまでは言えないのだろう。推進派ジャ−ナリストの藤田真一氏は次のように語る。「脳死体の管理には、当然費用と人手が必要だ。その管理費は一日5万円と聞きますが、それで計算すると1体につき2ケ月で300万円、年間で1,000体とすると、総額180億円を超える。」(『どうする移植医療・救急病院は死体管理場にあらず』朝日ブックレット)このように、推進派の本音は、医療費を抑制しようということと、医療効率を上げようということにあるようだ。推進派は人類愛をたてまえにしているが、経済効率を優先する本音が見える。

 臓器移植は、「2つの死より、1つの生を」というキャンペ−ンでも分かるように、人の生命を功利主義的に考える傾向が強い。医療費を少しでも抑制しておきたいのが、政府の本音だろうが、上からの政策と、下からの生命功利主義が、不気味に一致するとき、何が出てくるのか。「脳死者の心臓をいつまでも動かすなんて、死者の尊厳をないがしろにし、死体をもてあそぶ冒涜行為だ」と藤田氏は主張するが、「脳死」を死と認めた場合、どのような危険性があるのだろう。第一に考えられるのは、対象者の拡大だ。アメリカでは、無脳児(脳に重い障害をもっているが「脳死」とは全く異なる)から臓器が取り出されたと聞く。次に考えられることは、「脳死」者活用だ。臓器移植もその一つだが、死者と判定された場合、人権もないから、実にさまざまな事が行われるだろう。森野一樹氏は『脳死Q&A』のなかで、「脳死」反対を3つの立場に分けている。第一に「脳死」ウソだ論で、科学的に「脳死」は人の死とはいえないという主張。第二に「脳死」危険だ論。これは「脳死」を医療現場に持ち込んだら、人権上危険であると言う考え方。そして最後に、「脳死」イヤだ論。これはとにかくイヤ だという立場で、心情的な反対意見だと思われがちだが、実はそうではないのだ。

脳死、つまり、首から上の死というものを認知するためには、首から上の生というものが前提となる。言いかえると、肉体から切り離された精神の生死という、「心身二元論」を展開することなしに、脳死認知は可能にならないということだ。このことは私たち、真宗者、仏教者の存在自身に関わる問題であると言えるだろう。人類愛という言葉に踊らされて、頼まれもしないのに、しゃしゃり出る親切なお坊さんの類は、ことの重大さを理解していないのではないか。 




▼仏教のない脳死論は危険である                             
 青木 新門(詩人)

私のような在家の仏教徒から言わせてもらえれば、脳死法制化に対して仏教界がなぜこぞって反対しないのだろうか不思議でならない。

僧職者の中にさえ、他の生命を助けるためにわが身を捧げるのは「捨身飼虎」に等しい布施行為であるから賛成であるとする人さえいる。しかしそうした意見は三人称的な立場での軽薄な発言であって、捨身飼虎や焼身供養といった布施行為は、まさしく一人称の全人的行為であり、生死一如の菩薩行にほかならないことを肝に銘ずべきである。

 「悟り」や「信」への行もなく、経典を知識で読んで引用して<大語を行く>者は、なにも良寛の詩『僧伽』の中だけのことではないらしい。

私は、脳死の法制化に対して真っ向から反対したい。その反対理由は単純である。脳死を人の死と法律で定めたいと思っている人々は、人間至上主義の科学技術を頑なに信じる人で、自然は人間のためにあると信じている人たちであり、私は人間が自然の一部であり、生かされて生きていると思っている人間だから反対なのである。

 まして相対性理論や量子論が、時間と空間は一体で、それを観察する人間の存在と分けられないことを証明しているのに、自然を排除しようとする思想がのさばっている。もし<生老病死>や<生死一如>を自然とみなさない思考では、仏教の理解も相続もないだろう。またこの自然排除の論理は、道元の「生より死へうつるとこころへうるは、これあやまりなり」(正法眼蔵・生死の章)の否定であり、親鸞の自然法爾章の「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」の否定でもあろう。

 これでは大自然(宇宙)の真理を説いた仏教そのものが根底から否定されてしまうことになる。あの科学者のアインシュタインが、広島、長崎の原爆投下を知って「宗教のない科学は危険である」と言い残した。脳死法制化の論争にも、人間中心・自己中心の欲望が見え隠れしている。人間の欲望は際限りない。

 仏教のない脳死論は危険である!




▼「家族の心情を考えた脳死判定を」                   
    坪田マサ子(ビハ−ラ(*2)8期生)

「脳死は人の死か」ということを聞くにつけ、医療の現場で出遇った、過ぎし日の患者と家族を思い出します。交通事故患者は、救急病院の役目ですが、脳外科からの患者を、老人専門病院が引き受けることが、しばしばありました。ある時、交通事故で、30代後半の女性が運び込まれました。全く意識がなく、昏睡が続きました。自分の意志の叶わぬ処で、持続点滴で生命を維持されての脳死状態でしたが、女性としての生理は確実にめぐってきて、子を産み育てる母親の生命力の強さを感じたものです。

 また、やはり働き盛りの男性が、交通事故に遭い、全身麻痺、言語もなく意志の伝達は、首を振るのみの表情、表現でしたが、毎日の関わりに中では、訪ねてくる妻や、子どもよりも解りあえることがかえって不憫でもありました。1年位は、体力もありましたが、そのうちに風邪がもとで肺炎になり、やがて昏睡状態から、いわゆる脳死状態が続きました。

 家族のおかれている状況を見るとき、妻は病弱で働けない状態にあり、子どもは小学3年生でした。患者は被害者で、家族の生活は加害者からの支払でまかなわれていました。例え昏睡状態、脳死であっても、被害者が生きている限りは、家族が守られているのです。その後、みぞれが降る寒い日の夜中に、呼吸が停止し、精一杯病魔とたたかった最期を看取ったのは、家族ではない私たちでした。死亡した夫と対面した妻が、泣きながら最初に口にしたのは、「お父さん、私たちこれからどうするの−−−」という言葉でした。「脳死・臓器移植」については、人それぞれの置かれている環境や条件の違いがありましょう。脳死の判定は、誰の為のものなのでしょう。家族が受け入れたときが死であって「法律がこうなっていますから」というのは、納得できないことです。脳死に陥った人の家族の心情を充分に考えた末期医療は勿論ですが、その移植のために、家族が死の受け入れをせかされるようなことは、絶対にあってほしくないと思います。 (*2)ビハーラ実践活動研究会 :ビハーラとはインドの言葉(サンスクリッド語)で、身も心も安らかであること、具体的には「安住処」、「僧院」のことをいいます。浄土真宗本願寺派では、病床や高齢者施設におられる方がた、またその家族などの精神的な不安や苦悩に寄りそい、それらをやわらげていこうとする活動を実施、「ビハーラ実践活動研究会」としてその活動を実践できる会員の養成に力を注いでいます。




法律施行後、初めて行なわれた脳死判定と臓器移植

(1)浮彫りにされた日本人の死生観


 1999年2月28日、高知赤十字病院は、臓器提供する意志を示している患者に対する、第2回目の脳死判定を行い、わが国で初めての、法律施行(臓器移植法/1997年10月16日施行)後の臓器移植が実施された。

この判定基準は、1985年に厚生省の「脳死に関する研究班」が決めた「竹内基準」と呼ばれるもので、「(1)深い昏睡状態 (2)瞳孔が固定 (3)脳幹反射の消失 (4)脳波が平たん (5)自発呼吸がない の5つの条件を満たし、(6)(1)から(5)が6時間たっても変化がないこと を確認できれば、脳死と判定できる。」となっている。

今回の実施を巡っては、医療の問題もさることながら、『「死」に対する見方』が大きく問われる結果を生んだ。それはマスコミの報道取材姿勢に象徴されたが、決してマスコミだけの問題ではなく、現代日本人の「いのちの問題に対する鈍感さ、軽薄さ」からくる、野次馬的興味を敏感にキャッチした結果の行動であったという面も否定できない。

10年前の湾岸戦争のとき、テレビに写し出された、米軍のコンピューターによるミサイル攻撃を、まるでテレビゲームを見るような感覚で「当たった、当たった」と喝采を叫んだ、われわれではなかったか。その標的の下に、多くの人々の悲惨と呻きがあったにもかかわらずにである。

いま大事なことは、われわれ一人一人が「脳死とは」「いのちとは」という、基本的命題に迫ることではないのか、ということであろう。 

そこで、そのためのてがかりとして、今回の問題を契機に、様々な意見が出されたが、それらを通して命題に迫る糸口にしたい。

ちなみに、2月28日付の新聞に総理府が発表した「臓器移植に関する世論調査」の結果が掲載されていた。それによると、「提供したくない」37.6%、「提供したい」31.6%であった(この他は「わからない」など)。




◆シリーズ◆ 脳死は人の死か

(1)臓器移植法案 衆院可決をめぐって
(2)「いのちの問題」「生命観」についての論文
(3)念仏者よりのコメント

Copyright by RELNET

戻る