国際宗教同志会平成30年度第二回例会 記念講演
オスロ大学 教授
マーク・テーウェン
本日は国際宗教同志会様にお招きいただき、有り難うございます。まず最初に、何故オランダ人が神道について関心を持ったのか皆様も興味があるのではないかと思いますので、このことについて少しお話しした後、本題に入りたいと思います。昭和の終わり頃にオランダで日本語を勉強していたのですが、大嘗祭がそれほど遠くない将来に行われるという時に、当時八坂神社の宮司をしておられた真弓常忠先生がヨーロッパ視察に来られました。私は卒業間近の学部生だったのですが、真弓先生の通訳としてアルバイトをしたことがきっかけで親しくなり、真弓先生から直々に「皇學館大学に来い」とお誘いいただきました。「神道をやったら(学ぶなら)日本に行ける」と思い、皇學館大学に2年ほど滞在して神道を学び博士論文を書きましたが、その後ハマりました(会場笑い)。それ以降なかなか抜けられず、あれから30年経ちましたが、今でも八坂神社のことをやっています。
ひとつ疑問に思ったのは、日本の研究集や論文をたくさん読んでも、何故、神道という民俗宗教が日本に存続しているのかということを真剣に考えている人が居ないように思えます。神道は、いわば自然現象のように日本の景色の一部であるはずですが、しかし、それがいったい何故あるのかについて深く追求されていません。よく考えてみると、これは非常に変わったことだということが判ります。例えばアジアの中で考えてみると、神道のような宗教はほとんどないと思います。中国ならば儒教という普遍的な道(天道や人道)があり、ローカルな民俗宗教がそれに影響を与えることは、まず考えられません。これは韓国においても同じ、儒教系はすべてそうだと思います。仏教圏にもローカルな神々の多彩な儀礼がありますが、そういったローカルな仏教が普遍的な仏教に対して挑戦することは、まずありません。
しかし、日本ではそれが起こっており、そのこと自体、非常に変わった現象ですから、説明が必要になります。日本は東アジアの一部分であり、(中国や韓国と)同じ文化圏であるにもかかわらず、何故日本だけでそのような現象が起こったのでしょうか? これは「神道とは何か?」というより大きな質問に関わってきますが、まず「神道は自然現象ではない」という前提に立つならば、誰がいつ創ったものなのか? 歴産物と考えるならば、成立した時期も考える必要があります。神道の成立について考えた人は、これまでたくさん居られるのですが、皆、答えが違うのです。ここで列記してみましたが、縄文から明治に至るまで、人によってまったく答えが異なります。何故、これほど答えに違いが出るのでしょうか? それは神道の定義が異なるからです。例えば「神道=自然崇拝」と捉えるならば、縄文時代や弥生時代、「神道=天皇制」ならば明治時代といったように、時代ごとに定義がいろいろある訳です。私が思っているのは、自然崇拝は昔から存在し何処に行ってもあります。ノルウェイにもあります。
では、神社や巫女、神懸かりといったものすべてを、ひとつの特殊な宗教として概念化したのはいつ頃なのか。枠を作ってそこに名前を付けて、概念として定義していくのですが、それがいつだったかが大事になります。神道という抽象的な概念を創っただけでなく、箱を創ること(「これは仏教ではなく神道である」と、分けて考えること)が「概念化」ですが、中世以降に何回かにわたって起きました。「神道」がカテゴリーの名前として発達していく前にも日本書紀に出てきますが、それはカテゴリーとしての名前ではありません。日本書紀を除けば、あとは神宮史の縁起ものにしか出てきません。
それは何かと申しますと、仏教の力でインドの神々を純化していくというコンテキストの中で、中国で「神道」という言葉が既に使われており、それが神宮史の縁起ものに託されてそのまま使われるようになったというものですが、これはまた別の箱であり、神道の概念化とは言えません。「神道は仏教とは異なる何か特別なものである」という考え方が中世以降に起こりましたが、もちろん、これは明治の国家神道とはまったく異なるものです。歴史の中で何度か概念化が起こり、それぞれ違う箱だけれど、その都度神道の箱ができた。その後、普遍宗教である仏教に挑戦する訳ですが、この点について、もう少しお話ししたいと思います。
左の写真はタイの霊の家ですが、スリランカであればお寺があり、デヴァーラというデーヴァが住んでいる神社のようなものが一緒になっています。京都にあっても目立たないような祠ですが、お寺の外にあったりします。では、これが仏教ではなく別の箱(カテゴリー)、別の宗教と考えるかと申しますと、それはあり得ません。土地の神々は仏教に吸収され、デーヴァや護法善神となり、曼荼羅の概念に位置付けられ、仏様のお手伝いをする存在として独自性を失います。「山の神様」や「民族の神様」ではなく、護法善神の1人として、須弥山の辺りに住んでいます。
(取り込まれて仏教の護法善神となった神々は)いろんなところに住んでいるのですが、結局は帝釈天の部下に過ぎません。曼荼羅の外縁の神様が「ウチは仏教と違う」と言い出して独立が成功することは、仏教圏ではまずありません。では、儒教圏ではどうかと申しますと、これは韓国にある村の鎮守なのですが、韓国にもシャーマンもいるし、土地の神もいるし、山の神などもいるし、祖先崇拝もあります。だとすると、韓国にも神道的宗教が広がってもおかしくはなかったけれど、それは絶対ありません。韓国は儒教が強く、あまりにも儒教から離れてしまうと、今度は『礼記』で言うところの「淫祠(いんし)」と呼ばれ、禁止されたり儒教化されました。「ある土着宗教が、仏教は駄目だ。これこそ本当の宗教だ!」と言ったとしても、誰も相手にしません。それがアジアにおける普通であり、むしろ日本がおかしいと言えます。日本の事情については、皆様よくご存知だと思いますので、今日はアジアの視点に立って考えてみたいと思います。アジアではどうだったか。そして、アジアの事情から日本や神道について考えてみましょう。
まず取り上げたいのは、『ヒマラヤの対話』という本です。これはネパールの山間部における話ですが、もともとネパールはどちらかというとヒンドゥー教が強い国ですが、谷の集落では土着宗教のほうが強く、山で伝統的な祭祀を続けるグルン(Gurung)と呼ばれる人たちが住んでいますが、チベットに近いことから仏教徒が入ってきます。もともとの祭祀がどのようなものか、そしてチベット仏教が入ってきたことでどうなるかが対話として取り上げられています。グルンではクレ(Kle)とクロ(Khro)という2つの氏がありますが、先祖が神々の国である天から降りた鳥であり、その鳥が神木(神籬(ひもろぎ))の枝に降りて設けた子孫がクレ族です。もう一方のクロ族の先祖は地下の世界から木の根っこを伝って地上に現れました。この天と地が交わって穀物が育つので、両方が必要です。そのためクレとクロが協力することで、その谷間の集落が栄えます。
収穫祭―これは新嘗祭と同じだと思っていただいて良いと思いますが―がありますが、鎮守の森があってその真ん中に大きな聖なる木があり、周辺に皆が集まる広場があります。クレとクロの神主に相当する人たちが神話(天と地の話)を説明し、お供え物をして直会をします。この祭をちゃんと行えば来年も稲が育つと信じられていますが、典型的な宇宙観や政治的秩序や社会的秩序を形作るような祭祀です。『古事記』にあっても良いような祭祀です。そこにチベット人が入ってきますが、移民ですから社会の一番下っ端で最も貧しく、良い土地は貰えません。社会秩序の一部になる訳ですから、そういった祭に移民も参加しなければなりません。皆が穀物を寄付して直会で使うのですが、これが既成秩序を認めるしるしになります。後はチベット人の村ごとにお祭をしなければなりませんが、鶏を殺して直会をする義務があります。そこにラマ(チベット仏教)僧が入ってきます。大きな鎮守の森では直会では鹿の心臓を食べるのですが、不殺生戒を持つラマ僧としては、そういうことはやめてほしい訳です。ここは仏教の教えに沿って「少なくとも鳥(赤い供え物)を殺すのはやめて、何か野菜(白い供え物)を供えても良いのではないですか」と提案しました。
そして、グルンの人たちの天の神様、地の神様は皆、仏教における護法善神に再解釈されます。もちろん土地の神様は強いのですが、その上に帝釈天が居られて、さらにその上に仏様が居られる。この祭は、クレやクロの先祖ということが本当の意味ではなく、全衆生のために平和と豊穣を生み出し、衆生の解脱を最終的な目的として再解釈されます。そこにある祭を否定するのはもとより不可能ですが、その意味をよく考えると日本でも神道が取り入れられた神宮寺の文脈とよく似たものだと思いますし、言うなれば、これも神道ができるような環境なのかもしれません。似たような面が一杯あると思います。ネパールの例は、仏教が弱い立場にあるひとつの例ですが、次は仏教が強い立場にある例を挙げたいと思います。
これはミャンマーの例ですが、ペグー王国は現在のミャンマーの南部にあり、時代は日本の室町時代とほぼ重なります。ヤンゴンに有名なシュエダゴン・パゴダを造った王朝ですが、ここでは特にダンマゼーディ王を取り上げたいと思います。彼は15世紀後半の王様ですが、ミャンマーの仏教は堕落しているのでスリランカから厳格な戒律の小乗仏教を再輸入して―政治的な裏もあったかもしれませんが―、仏教を再興するために僧伽(サンガ)(僧院)を浄めることによって自らの王権を強めました。こちらの写真をご覧いただくと、パゴダの中の柱ごとに人形がくくりつけられているのが判ると思います。元々はひとつずつに名前が付いているのですが、お寺の近くの木の神様などが多かったそうです。あるいは、日本でいうと怨霊のように反乱を起こした人たちと木の神様がかなり雑に入り交じっているのですが、ミャンマーのそれぞれの土地の神様です。おそらくはいっぱい居られたそういった土地の神様を36柱に抜擢して「ナッ」にして、シュエダゴンのパゴダに安置したのです。国家儀礼としてナッに供え物をしますが、この36という数字は偶然の産物ではなく須弥山と関わる数字です。世界の中心に聳(そび)えると言われる須弥山の頂上である?利天(とうりてん)の王である帝釈天の下の須弥山の4つの峰に四天王の宮殿があり、宮殿ごとに8人の提婆(だいば)が居て、32プラス4で36になるのですが、ペグ王国そのものが曼荼羅みたいな形になる訳です。実は国土そのものも32県4道に分けて、それぞれにナッが1人居るのですが、王様は仏教のパゴダの一番下のところに(36県道)すべてのナッを鎮座させてお供え物をすることによって、自分は帝釈天であり仏様に一番近い存在であると示すことで、王権を仏教化した訳です。もちろん、土地の神様(日本ならば神道の神様)がたくさん居られますが、それは仏教の枠の中に嵌(は)められて、仏教の中で大事な役割を果たすのです。これがアジア的な形だと思います。
この2つの例を合わせて考えますと、仏教の弱い立場の国、強い立場の国、それぞれありますが、だいたいのものは、そのほとんどの例はこの二者の間のどこかに当て嵌ります。日本も中世はだいたい同じような世界だったと思います。特にアジアの中で特殊な所ではなく、だいたい同じような感じで土地の神様が仏教の枠の中で何らかの大切な存在になっています。
次に近世近代に入りますが、神道が仏教から離れた現象が起こったのは、それと似たような現象がアジアのどこかにないかと探したところ、ヒンドゥー教がわりと参考になるように思います。何故かと申しますと、近世明治に神道という枠をもう一度概念化した際に、一番中心的な考えは「神道は日本本来の教え(道徳や精神や宗教)であり、元を辿れば皆、神道であり、あとはいろいろあったもののこんがらがって近代になって再び復興することができた。そして世の中では、純粋な神道が主導席に座る…。天皇陛下が純粋な神道儀礼を自ら行っているからこそ、日本は繁栄する…。それがネオ神道の考え方ですが、ヒンドゥー教も同じようなものです。昔はヴェーダがあり、皆が純粋なヒンドゥー教を信じていましたが、中世になって堕落し、いろんな宗派や迷信、習合があり、近代になった後に大掃除を経て、純粋な古典に基づいたヒンドゥー教が復活しました。それに続き、新しいヒンドゥー教が生まれるなど、同じようなパターンがあります。
その時の概念化は何かと申しますと、純粋な古代を創造するところが大きいです。近代以前の状態を習合や堕落と定義しておいて、新しいものを古代の復活として位置付ける。日本ではそういった近代的な動きがどのように起こったかと申しますと、明治時代は、欧米の圧力、文明開化の時代、キリスト教が新しい概念を持ち込みました。「日本はキリスト教国になってしまうかもしれない」という危機感を抱きつつ、日本を新しく考えなければいけないという時代でした。日本は波瀾万丈の段階を経て、さまざまな神道が創造されていくのですが、「もう一度純粋な神道を創ろう」ということで、神仏分離から大教宣布運動、政教分離、神道非宗教論、そして「神道とは国民道徳や国民精神である」といった日本精神論や、「神道は世俗的なものではなく超宗教だ」という人もあり、さまざまな概念化が行われています。
では、インドの場合はどうでしょうか? 近代的なヒンドゥー教(ネオ・ヒンドゥーイズム)が明治時代に浮上しました。新しいヒンドゥー教と前近代のインドに実際にあった宗教とどう繋がるのか…? これについて、2人のイギリスの学者による2つの代表的な視点をここで取り上げますが、2人の間で有名な論争が行われました。ケンブリッジ大学のリプナー(Julius Lipner)氏は「ヒンドゥー教はいわゆるイギリスの植民地時代に新たに創られた宗教ではなく、ちゃんと昔からインドに存在し、育まれてきた宗教である」と解釈しました。では、何処にあったのかというと、ヴェーダ解釈を行うヴェダンタ学派がいっぱいありました。しかし皆が同じヴェーダを勉強していた訳ではありません。皆がそれぞれの古典を持ち、それをヴェーダと呼んでいたのですが、ヴェダンタ学派は同意するところは少ないのですが、一応互いに喧嘩します。「ひとつの喧嘩する家族。それがヒンドゥー教である」と言います。イスラム教徒もいっぱい居たのですが、イスラム教徒は「家族じゃない」ので、こういう喧嘩からは除外され相手にされません。リプナー氏は「そういう意味では(ヒンドゥー教に)まとまりはないけれども、論争を繰り広げる家族はあった」と主張しています。
では、その学派は何を探していたのかというと、ヴェーダ(聖典)の正統性です。少なくとも正統なヴェーダが近代以前のヒンドゥー教の中心だったのではないか。ただし、正統性を探究するのですが、学派によって「正統」の意味が異なります。日本でも明治になって「仏教とは何か」という大きな論争があったのですが、浄土真宗から真言宗に至るまで、皆違うヴェーダ(経典)を持っていて、皆が同意するような教えもあまりありません。そのようなことがヒンドゥー教にもあった訳です。リプナー氏は、ヒンドゥー教を「ジャングル」に例えています。いろんな宗派、学派、祭祀、社会集団があって、皆バラバラなんだけれど同じジャングルに暮らしている。彼は「ガジュマルの木」とも言っています。幹がいっぱいあるけれどひとつの種から出ているヒンドゥーらしさを探さなければならない。
これに反論したのがケント大学のキング(Richard King)氏です。リプナー氏は「学派に家族がある」というけれども、それは非常にエリート主義的な言い方で、バラモンの偉い人たちしか知らない世界であり、インド人の0.01パーセントだけが家族かもしれませんが、それでインドの宗教を統一しても「ヒンドゥーらしいヒンドゥー教」と言うには及ばない。リプナー氏の説は学問的でエリート主義的な見方だと主張しています。例えば、女性は何処に属するでしょうか? 縁のない世界です。リプナー氏はヒンドゥーらしさをいろいろ指摘していますが、皆が同意しないため、とても曖昧なものに留まっています。絶対的な神が存在せず多中心主義といいますか、エルサレムのような中心的な場所があるのではなく、皆がそれぞれの聖地を持っている訳です。もし、それを「ヒンドゥーらしさ」と呼ぶのであれば、ヒンドゥーらしさとはバラバラであることではないのか。だとすれば、ひとつにまとまった近代以後のヒンドゥー教はイデオロギー的空論に過ぎないのではないかとキング氏は批判しています。こういった2つの見方があるのですが、インドではキング氏のようなことは言えません。
「ヒンドゥー教」という言葉は、インド起源の言葉ではなく、実は英語の「ヒンドゥーイズム」のほうが先にできました。「ヒンドゥー教」を意味する「ヒンドゥー・ダルマ」というサンスクリット語があるのですが、この言葉は先に創られた英語の「ヒンドゥーイズム」を翻訳するために後から創られた言葉です。日本語の「宗教」と同じように、幕末維新期に欧米から入ってきた「レリジョン」という概念を翻訳するために創られた言葉です。もちろん、よく探すと中国の古典の中に「宗」と「教」という漢字が並んでいることもありますが、そこで表されている言葉の意味は、いわゆる「宗教」のことではありません。同様に「ヒンドゥー・ダルマ」もよく探すとインドの古典の何処かに出てくるかもしれませんが、それは「ヒンドゥーイズム」から相当遠い意味で使われていたものを、新しく「ヒンドゥーイズム」の翻訳語として使い出したのです。
という訳で「ヒンドゥーイズム」は植民地支配のイギリス人たちが創った概念ですが、英国が統治することになったインドにはいろんな人々が居るけれども、イスラム教徒の異質性は判りやすい。でも、それ以外はよく解らないから、イスラム教徒以外は十把一絡げに「ヒンドゥーイズム」と呼んでしまおうということになりました。「ヒンドゥー」とは「インド」という意味ですから、ヒンドゥーという言葉は昔からインドにあるのですが、英語における元の意味は「イスラム教徒以外のインド人」ですので、それとよく繋がる意味の使い方をしていました。だいたいイギリス人のキリスト教宣教師がインドの宗教に興味を持って、ヒンドゥーについて知らないとインドにおける布教活動が捗(はかど)らないので、ヒンドゥーイズムについて勉強したり、ヒンドゥーについて書いたりしているのですが、大抵の話は「残酷で暴力的で野蛮な迷信である」と記しています。例えば、「ヒンドゥー教では、自分の子供をワニに食べさせたりすることが普通に行われている」といったようなことも書かれていて、ヒンドゥー教のイメージを形成しています。実は、アフリカの宗教についてもキリスト教と異なる人々に関して同じような話が残っています。
この「イスラム教徒以外は皆ヒンドゥーイズム」という考え方は、多くのインド人が現在でも共有していて、「インドはひとつの国であり、ひとつの民族である。皆がヒンドゥー教で結ばれている」と捉えていました。日本でも、明治の近代仏教を創った人たちが新仏教を生み出す際、だいたい仏教の外の世界から現れるのですが、インドでも同じようなことが起こりました。例えばラーム・モーハン・ローイ(Ram Mohan Roy)師が、ブラフモ・サマージという教団を創るのですが、「ブラフモ」は「ブラフマ(梵天)」を意味します。この社会的新宗教運動は非常に理論的で、キリスト教よりも哲学を持った倫理的な信仰、宗教、哲学、そしてヒンドゥー教を創造しました。今でもさまざまなところにブラフモ・サマージが在りますが、ローイ師の出身地でもあるベンガル地方に最も大きなコミュニティがあります。
ローイ師によると「神様は1人で、生きとし生けるものすべてに内在する」と説いたのですが、このように、ネオ・ヒンドゥーイズムはキリスト教に似たような一神教で、とても近代的で合理的な宗教です。まさに同じようなパターンで、歴史的な展開を創造する基盤に立っています。古代のインドには深い哲学があったけれども、中世はいろいろあって堕落し、その時にカーストができたり、多神教になったり、迷信が加わったり、儀礼中心主義的なものになってしまった。しかし元々は偉大な哲学であり、その哲学は一神教であるという考えに基づいて新しいヒンドゥー教を創ろうという動きでした。明治時代、神道にもそういった一神教的な動きがあったと思います。
例えば、「カーストはもともとヒンドゥー教には存在せず、皆平等である」という考えがありますが、それに反論するもう少し保守的なバラモンも大勢いました。ですので、ローイ師や後ほど出てくるヴィヴェーカーナンダ(Vivekananda)師も、「ヒンドゥー教」という概念だけは継承したのです。もちろん、バラモンが「ヴァルナ(カースト制度)」のさらに枠外に位置する「アヴァルナ(不可触民)」と結婚しても良いといった平等主義はありませんから、根本的なところが異なるのですが、皆が同意するのは「元々偉大なるヒンドゥー教があった」という点です。端的に申し上げると、イギリス人の宣教師たちが発明した「ヒンドゥーイズム」という考え方がインドで取り上げられて、発展して、「ネオ・ヒンドゥーイズム」の土台になりました。
明治の神道を考えると凄く参考になるのですが、20世紀に入ると独立運動が本格的に展開されるようになり、イギリスでもインドから資源を取り上げるだけではなく、本格的な植民地支配が始まります。独立運動に加わった人たちは逮捕されたり島流しに遭ったりするのですが、そのうちの1人ヴィナーヤク・ダーモーダル・サーヴァルカル(V.D. Savarkar)氏は「インド国粋主義の父」と言われ、いわばインドにおけるナショナル・ヒーローです。ここで、サーヴァルカルについて申し上げたいことは、ヒンドゥー教というものができていたけれど、先ほど出てきたヴィヴェーカーナンダ師やローイ師のヒンドゥー教は、まだ狭い。バラモンのヒンドゥー教のお寺に何らかの形で結び付いている人たちを指すのですが、例えばシーク教徒やジャイナ教徒はヒンドゥー教徒ではありませんが、インド人です。もちろん、イスラム教徒は除外されているのですが、サーヴァルカル氏は、「ヒンドゥー教は特定の宗教ではなく、インドの国民精神、国民道徳のようなものだ」と述べています。また、狭義のヒンドゥー教ではなく、広義のヒンドゥー教もあり、そこにインドで起こった宗教の全てが含まれています。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は外から来たものなので、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒はインド人ではないけれども、シーク教徒、ジャイナ教徒、仏教徒はインドで生まれた宗教なので、皆インド人とみなされます。
ここで、ヒンドゥー・ダルマ(Hindu-dharma)と、ヒンドゥー・トゥバ(Hindutva)という新しい言葉が創られたのですが、「ダルマ」は「宗教」を指し、「トゥバ」は「~らしさ」を意味します。この「ヒンドゥー・トゥバ(インドらしさ)」は、ヒトラーが言うところの「ドイツらしさ」とよく似ているのですが、最近、ヒンドゥー・ナショナリズムのひとつのモットーになっていて、「ヒンドゥー・トゥバ」の名の下にイスラム教徒を迫害することもあるため、ナショナリズムから距離を置くために、リプナー氏は西はパキスタンから東はビルマまでを含めたインド亜大陸をひっくるめて「ヒンドゥー・スターン(ヒンドゥーの国)」という新しいサンスクリット語を創りました。しかし、たとえ新しいサンスクリット語を創ったとしても、似たようなところがあると、キング氏の反発もありました。
神道とヒンドゥー教の大きな違い―これは根本的な違いなのですが―は、ヒンドゥー教では「僕はヒンドゥー教徒だ」と、それが宗教アイデンティティになっている人が10億人近く存在するのに対し、神道は例外はあるけれど、「僕は神道だ」といったような宗教アイデンティティはほとんどありません。これはヒンドゥー教と神道の非常に異なる点なのですが、仏教やキリスト教といった個別の宗教以前に「神道」という道や教義があって、日本人であるかぎり、それに従わなければならないという「大教宣布」のような運動が明治初期にあり、神道は特定の宗教ではなく、広く日本人の国民道徳に従えればそれが神道なのだという考え方が維新後に見られました。これと同じような展開がヒンドゥー教にもあったということが、非常に興味深いと思います。近代国民国家作りの一環としてそういう展開になったと思います。特に独立運動があって、その中で戦いがある中で、ヒンドゥー教が大きな役割を果たしたのですが、独立した後はイスラム教徒との戦争があり、東西パキスタンの独立という結果に至ったと思います。
そろそろまとめに入ろうと思います。神道をアジア各国の宗教史を参考にすれば、よく似た所がそれぞれの時代ごとにあります。日本は、アジアと同じパターンで展開するところも多いです。もちろん、日本は独特でユニークなのですが、ミャンマーにもインドにも独特でユニークなところがありますので、そのユニークさを理解しようと思うのであれば、似たような展開のあったところを並べて比較してみると良いです。「あちらではこういうことが起こったのに、こちらではそうならなかったのは何故だろう」といったように、新しい質問が浮かび上がって考えるきっかけになります。
実は、私はミャンマーにもネパールにもインドにも行ったことがないので、ここで今日お話ししたようなことは本で読んだことばかりです。実際に現地へ足を運ぶと、またまったく違った面が見えてくるだろうと思いますが、歴史的な展開について読むだけでも、これだけのアイディアが湧いてくる訳です。あらためて「神道と一番良く似ているのは何だろうか」と考えてみたのですが、私はチベットのボン教かなと思ったりもします。ボン教の専門家は「違う!」と仰るかもしれませんが、例えばチベット仏教はチベット語の影響が非常に強く、「インド由来ではない仏教を創ろう」という気概を持った宗教です。普遍的な仏教はあるのだけれど、チベットの神々は、その上にあるという発想…。そこだけが神道と似ているような気がします。異なるところもたくさんあるのですが…。
ミャンマーで面白いのはナッ信仰ですけれども、近代になってイギリスの植民地となりビルマ王朝がなくなったのですが、それまでナッ信仰の祭祀を仕切っていた王朝がなくなったことから、民間の祭祀へと変わっていきます。王は帝釈天ですから、仏教の中に入れるのがポイントだったのですが、王様が亡くなると王朝にまとめる力がなくなり、ナッ信仰も一人歩きするようになりました。「仏教よりもウチ(ナッ信仰)のほうが効きますよ」というような言い方も可能になってきます。あと百年も経てば、ナッ信仰も神道のようになっているかもしれません。今日は、この辺りで終わりにしたいと思います。ご清聴、有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)
国際宗教同志会平成30年度第二回例会 記念講演
オスロ大学 教授
マーク・テーウェン
三宅善信:限られた時間ではございますが、質疑応答に入りたいと思います。ご質問のある方は挙手し、お名前とご所属を言っていただいてからお願いいたします。
嘉木谷英幸:嘉木谷と申します。神道の歴史に関しては詳しくないのですが、自分自身が信仰していることもあり、新宗教としての神道には馴染みがあります。新宗教としての神道の特殊性というものがあれば教えていただけないでしょうか?
マーク・テーウェン:このブラフモ・サマージという教団は、新宗教らしいと言えるかもしれません。通常、各地の伝統やしきたり、祭があるのですが、その奥に偉大で高貴な「ヒンドゥー教」がある。それを深めて特定していくというか、一神教のようになったり、教派神道もそれぞれの事情があるのですが、神道というものがあることによって、それ以前から神道宗派に新宗教として発達していく性格があるように思います。もちろん、インドと日本では事情が異なりますが、そこにブラフモ・サマージと繋がるところがちょっとあるかもしれません。私は明治的な性格があるように思いますが、どう思われますか?
嘉木谷:先ほどまとめの中で、国民道徳を否定する、宗教より大きなものになっているとありましたが、明治、あるいはそれ以降の時代に「国民宗教」というか、より大きなものへと拡張され発展していくタイミングが、神道を日本人自らの宗教として意識する時期と関わりがあるように思います。
テーウェン:そうですね。今日では「ヒンドゥー教という宗教が、実は古代からあり、今まさにそれを復興するのだ。それこそがインド国民のエッセンス(本質)だ」という、「新しい物語」が共有されるようになる。この流れから外れるものもあるのですが、それでは困る。宗教ではなく、非宗教―道徳や哲学といった方向へ動いていく流れがあるという話だったのですが、例えば、教派神道は逆の流れですよね。どちらかというとブラフモ・サマージの流れ…。インドにも両方あるのですが、ヒンズー教のエッセンス(本質)はウチの団体にあり、それを宗教的に深めていこうという流れも同時に生まれます。そちらの方に属するかもしれません。
三宅:有り難うございます。次の先生、どうぞ…。
テーウェン:もちろん、ヒンドゥー教でもそれが主なんです。ほとんどの人はそれぞれの小さな共同体の中で生活していて、その共同体にはバラモンの家があり、神々の社があり、それぞれの家の祭祀があり、人々はそれに参加する訳です。その奥に「ヒンドゥー・トゥバ(インドらしさ)」や「ヒンドゥーイズム」が抽象的なレベルにはあるのですが、普通の生活の中でそれと接触することはありません。だからといって、それらが大事ではないということではなく、突然そういった抽象的な概念が生きてくるのです。ですので、それほど神道と変わらないのかもしれません。
キリスト教もそうだと思います。私はオランダ育ちで、生まれ育った場所はカトリックの多い地域でしたが、カトリックといえばローマに教皇を戴く世界宗教ですが、大抵、それとは別にウチの教会の祭というものがあり、隣のカトリック教会の奴らとは…(会場笑い)。けれども、国政選挙の時は、カトリック民主党に投票するのです。宗教には、ある種そういった2つの面があるように思います。しかし、ヒンドゥー教や神道は、もともとウチの祭とその辺りにある山伏の祭が同じ箱だという概念がなかった時代があった訳です。バラバラだったものの上に、後になって解った概念があるという点は、イスラム教などとは違うという気がします。
三宅:有り難うございます。もうお一方、どうぞ…。
懸野直樹:野宮神社の懸野と申します。多分、日本の神道の場合は、先ほど仰ったようなコミュニティ(村)の宗教と、国家祭祀の間を行ったり来たりしているような時期が何度かあり、歴史的に何度も改編されているから判りにくいかもしれませんが、ミャンマーの場合、王権と、ナッ信仰や文化がどのような関係にあったのか教えていただけますでしょうか?
テーウェン:数字的にはできないのですが、王朝があった頃は、国王は諸天の王である帝釈天のような感じで、一方、ナッ信仰はそこら辺の土地の怨霊や危ない暴力的な神様で、それが王様が仕切る仏教の軍隊の下っ端の兵となります。喧嘩になると王様はその兵を使います。仏様を暴力には使えないけれど、そういった怨霊たちを使いぶつけていく。ペグー王朝の頃はそういう感じだったと思います。
しかし、王朝がなくなった後、ミャンマーはイギリスの植民地になったりといろいろありました。あまり知られていないかもしれませんが、ミャンマーは中世からいろんな所から人々が流入し、イスラム教徒もいればポルトガル人の村もあったり、山のほうに行くとまた全く異なる民族がいる多民族国家ですから、それぞれの村にローカルな祭祀があると思います。それをどうやってまとめるかということで、仏教を使って小さな神様をまとめていく。王朝がなくなると、今度は社会主義や軍隊などいろいろと国民をまとめていく要素がありましたが、その中で仏教は今でも政治の中心的なところにある訳ですが、その辺りはとても複雑だと思います。
ナッ信仰はそういうレベルのものではないと思います。ただ、ひとつの組織を作って機能しているようです。例えば、いろんな祭がありますが、ナッ信仰の神職みたいな人たちがまつりごと(祭事)に巡回するので、いわばひとつの教団のようです。しかし上のことを仕切る力である王朝がなくなっているため、そこでちょっと独立宗教みたいな動きが見られるかもしれません。
懸野:日本の場合、古代でも崇神天皇と天武天皇の時の2回ぐらい国家祭祀の大規模な再編があったと思いますが、ミャンマーの場合、ペグー王朝の時代だけで、それ以外の時代にはそういうことはなかったということでしょうか。
三宅:懸野先生、質問を遮って申し訳ございません。お約束の時間になりましたので、ここでまとめさせていただきます。
近代国民国家を形成する際には「大きな物語」が必要で、例えば日本が明治時代に神道という概念を創り出したように、いろんな国でそれぞれの物語が生まれたと思います。例えば、アメリカ合衆国の場合には、エジプトで抑圧されていた古代のユダヤ人がモーゼに率いられて、リスクを冒して紅海を渡り新しいカナンの地に行ったという旧約聖書の話を借りてきて、英国で抑圧されていたピューリタンの人たちが大西洋を渡って新しい地(アメリカ大陸)へ来たので、「ここは神からの約束の地だ」と、もっともらしく自分たちの行動を正当化するための大きな物語として、旧約の「出エジプト記」の話が利用されたと言えます。
それから、普遍的な宗教の例ということで、仏教やイスラム教やキリスト教を挙げましたが、おそらくどちらの宗教も、普遍的であると同時にローカルな意味合いがあるのかなと、テーウェン先生のお話を聞かせていただきながら思いました。時間がまいりましたのでこれで終わらせていただきます。テーウェン先生、どうも有り難うございました。
(連載おわり 文責編集部)