国際宗教同志会平成30年度第3回例会 記念講演

《ロヒンギャ問題》の問題化

フォトジャーナリスト
宇田有三

2018年10月5日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において、国際宗教同志会(芳村正德会長)の平成30年度第3回例会が、各宗派教団から約50名が参加して開催された。記念講演では、フォトジャーナリストの宇田有三氏を招き、『《ロヒンギャ問題》の問題化』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する

ややこしいロヒンギャの問題

宇田有三氏

宇田有三氏

初めまして、宇田有三と申します。本日はよろしくお願い申し上げます。本日はロヒンギャの話をさせていただくということですが、これは非常に複雑で、これから私が説明しようとしている問題は、実はビルマの専門家の人あるいは東南アジアの専門家の人でも解りづらい問題です。ロヒンギャの問題を考えると、実は、われわれ自身が問われる問題でもあります。今、何を説明しているのかを時々顧みようと思いますが、今日、皆様に説明できるのは、おそらくロヒンギャの難民問題だけになるのではないかと思います。その他、イギリスの植民地時代の話や、日本との関係、メディアの関係、国家や民族、もちろん宗教の問題も含めると、1時間で説明するのは不可能なのです。実は、先週、高校の先生と協力機関の方々を対象に1泊2日で集中的に8時間かけて説明しましたが、それでもまだ疑問が出てきます。

話が前後しますが、先ほどはもったいないほどのご紹介に与りましたが、私はフリーランスでやっているため、こういうところに呼んでいただき、皆様の前でお話しさせていただけるのは非常に有り難いです。私は組織に属しておりませんから好き勝手なことを申し上げます。そのため一部ではかなり嫌われています。しかも、このように顔出しで講演できるようになったのは2012年からのことです。ビルマと関わり始めて今年で26年経ちますが、軍事政権時代は表に顔を出すことはほぼ不可能でした。現地ではスパイに間違われていたりしたため、現地に入る時の入国審査が非常に厳しく、世間へ顔出しができなかったのですが、ミャンマーが軍事政権から民政化したということで、ようやく人前で話をさせていただく機会を得ることができるようになりました。

先ほどご紹介いただきましたが、私がもともと関わりたかったのは、中南米の軍事政権をきっかけとした民族紛争や宗教紛争です。対立する両者のどちらにも正義がありますからね…。しかし、現地で取材いたしましたら、いろいろ取材していく中で「軍事政権下で人々はどんな暮らしをしているのだろうか?」ということに興味が湧いてきました。そこで、徐々に軍事政権に焦点を当てて取材を進めるようになりました。中南米の軍事政権にある程度片が付き、東南アジアの軍事政権へと関心が移る中、インドネシアは広すぎたので、ビルマで現地取材を始めました。ビルマの現地に入ってここまで深く関わった日本人は、おそらく私一人でしょう。全土を周りました。ビルマ問題だけでなく少数民族問題も扱っています。それでは早速本題に入りたいと思います。

ロヒンギャ問題の何がややこしいかと申しますと、ロヒンギャの難民問題とロヒンギャ問題とビルマ問題がゴッチャになっているからです。まず、これを分けて考えねばなりません。それはどういうことかと申しますと、ロヒンギャで難民が発生した結果として、人道問題、難民問題に発展しています。しかし、これはロヒンギャ問題の結果なんです。ロヒンギャ問題の結果、ロヒンギャ難民問題が生まれたのです。

では、ロヒンギャ問題の前にあるのは何かと申しますと、軍事政権のミャンマーの問題です。ミャンマーの問題が少数民族問題となり、ロヒンギャ問題へと変容していきました。それをミャンマー問題やロヒンギャ問題をすっ飛ばして、いきなりロヒンギャ難民問題をやろうとするものだから「何故、ロヒンギャ問題が出てくるのか?」と、初めから訳が分からなくなってしまうのです。ミャンマーの問題、ロヒンギャの問題、ロヒンギャ難民問題と駆け足になりますが順を追って具体的に説明していきたいと思います。

われわれがロヒンギャ問題を考える時、ムスリム(イスラム教徒)と仏教徒の対立、あるいは歴史論争となり、お互いが言いたいことを言い合うだけになってしまうため、私はできるだけ事実に基づいて話します。この世界地図は高校や大学の先生でもご存知ないですが、この地図は外務省が出しているもので、外務省が世界をこのように認識しているということの現れでもあります。

ミャンマーは、タイ、ラオス、中国、インド、バングラデシュの五カ国に囲まれていますが、結論はこういうことです。ロヒンギャの事実確認や歴史的背景に関心を払うよりも、テレビやインターネットで流れるロヒンギャ難民の苦境ばかりが目に付きます。そこで民族問題や宗教問題から発生した難民問題だと捉えられがちですが、実際はそうではありません。ロヒンギャの問題は40年前に遡ります。この40年間の間に問題が解決されてこなかったことに、われわれは目を向ける必要があります。

次に、軍事政権下のラカイン州の北部で起こった出来事です。これが一番重要なのですが、ロヒンギャの人々がいったい何を求めているのか? テレビや新聞で見かける多くの声は、「家を焼かれた」、「家族を殺された」、「この窮状を何とかしてくれ」という声が取り上げられますが、では、そのためにどうしたら良いのかと尋ねても「ビルマ側に戻りたい」というだけで、そのために何をすれば良いのかといった具体的な解決策が出てこないのです。日本にもロヒンギャの人が居ますが、「ロヒンギャ問題とは何か?」と問うた場合、難民問題については語れても、ロヒンギャ問題そのものを知りません。そこが複雑な要素です。

ミャンマー理解のための基礎情報

先ほどの地図とちょっと異なる地図ですが、この世界地図の中ですと、ミャンマーはここにあります。私はこの西方の村まで行きました。ミャンマーの雪山を見たかったからなのですが、プータオというところからジャングルの中を抜けて、4週間かけて最北のタフンダンという村まで歩きました。このタフンダンという村は北緯27度ですが、例えば、ここ大阪市大正区は北緯34度です。沖縄の那覇は北緯25度です。つまり、ミャンマーの北端部をずっと東方へずらしていくと、実は沖縄よりも北にあるのです。外務省の地図を見ると、沖縄の南方にあるように思えますが、ビルマは北から南まで長いので、カチン州の北部は沖縄よりも北になります。まずはこういった地理的なことから発想の切替えが必要になります。基礎知識に関しては本日資料で配布していますのでご参照ください。

日本には47都道府県ありますが、ミャンマーは基本的に14の地域に分かれています。さまざまなミャンマー本が出ていますが、ミャンマーは基本的にだいたい14州に分かれています。本日、前のほうに座っておられる方々(高齢の先生方)は、おそらく「ミャンマーは7州7管区」と記憶しておられるかと思いますが、2008年から日本語訳が変わっています。英語で申し上げると、以前は「ディヴィジョン(division)」と呼ばれたものが、現在は「リージョン(region)」と呼ばれており、日本語に訳した場合、「7州7地域」や「7州7地方」と記載されています。今でも「7州7管区」と書かれているものもありますから、その知識がないと、いったい何の話をしているのかが判らなくなります。

基本的な情報として、人口の85%から90%が上座部仏教徒ですが、ミャンマーの場合、上座部仏教と、木や山や家に宿ると言われる一種の精霊信仰であるナッ信仰が必ずセットになっています。ミャンマーでは、上座部仏教は非常に戒律が厳しいです。しかし、その一方で実際に市井の人々はそのような上座部仏教の厳格な戒律に従って生きている訳ではなく、私生活の中ではお酒を飲んだり不倫をしたりしています。

アウンサンスーチーさん、今回が四度目の来日ですが、今頃ちょうど成田に到着された頃だと思います。私はずっと彼女を追っかけて写真を撮っているのですが、ちなみにこれは2年前に京都に来られた時の写真です。

国宗会員を前に熱弁を揮う宇田有三氏国宗会員を前に熱弁を揮う宇田有三氏

まず、情報の混乱があります。例えば、アウンサンスーチーという名前をローマ字(Aung San Suu Kyi)で書くとややこしい。例えば国連などで何も知らない人は「アウンサンスーキー」と呼んでしまうのですが、正しくは「アウンサンスーチー」です。何故かと申しますと、ビルマ語にはキャ、キュ、キョの発音がなく、チャ・チュ・チョとなります。ですので、「Tokyo」だと「トウチョウ」と発音するんですね。また、時々、アウンサンとスーチーの間に中黒丸を入れている表記がありますが、これも間違いです。何故かといいますと、ミャンマー人にはファミリーネーム(氏姓)が存在せず、名前はすべてそれぞれのファーストネーム(個人の名前)なのです。例えば、アメリカ人のジョン・スミスさんの場合、ファーストネームがジョンで、ファミリーネームがスミスですから、ジョンとスミスの間に中黒丸を入れるのが正しい訳です。日本語で翻訳する時には特有の表記があっても良いのではという考えの方も居られますが、メディアに属する者としては、読んでいる人にできるだけ正確な情報を提供することがその役割ではないかと思っています。その考えに当て嵌めて考えるならば、ミャンマー人にあたかもファミリーネームがあるかのように見える中黒丸は入れるべきではありません。

この他によく言われるのは「軍事政権とアウンサンスーチーの対立」です。確かにそういうことはありましたが、なかなか日本に伝わってきていない情報のひとつが、ミャンマーが独裁国家かどうかということです。例えば北朝鮮には金正恩という独裁者が居て、ちょっと前までイラクにはサダム・フセインが居り、シリアにはバッシャール・アサドが居ます。しかし、ミャンマーの独裁者の名前はほとんど知られていません。何故、ミャンマーの軍事政権の独裁者の名前が知られていないのか? それは、ミャンマーの独裁体制が軍部による独裁体制であって、特定の誰か個人による独裁ではないからです。例えば、タンシュエ上級大将は独裁者でしたが、既に引退しています。次に穏健派のテインセイン大統領が登場した後にスーチーさんの政権に変わっています。

「ビルマ人」とは何か?

次にミャンマー文字ですが、ミャンマー文字はこのような「丸文字」です。日本でも十数年前に女子高生の間で丸文字が流行った時は「とうとうビルマの時代が来るか?」と思いましたが、すぐに忘れ去られました(会場笑い)。一方、こちらの画像ですが、アルファベットで書かれた書籍はカチン州ラワン族の人々(クリスチャン)の聖書です。例えば「ビルマ」という時、それがビルマ人を指すのか、それとも少数民族のカチン族等を指すのか。その背景にある歴史を説明しますと半数の方が眠ってしまうため、ポイントだけ述べようと思います。

ミャンマーは、もともと第2次世界大戦後に独立を果たしましたが、「ビルマ連邦」という国号自体は英国が付けたものを1989年まで使っていました。その後、英語表記もビルマからミャンマーに変わり、日本もそれに倣いました。それからずっと来て、2011年3月に軍事政権から民政へ移管しましたが、民政移管というのは形だけのことです。2012年にラカイン州でロヒンギャ(イスラム教徒)と仏教徒が対立し、現在の「ロヒンギャ問題」に繋がっています。1948年の独立後も、ミャンマーはずっと内戦をしており、例えばカレン民族同盟との間では現在も内戦が続いていますが、実は「世界で一番長い戦争」と言えるでしょう。1949年から2012年まで62年と9カ月も続きました。20世紀から21世紀に変わった頃に、よく新聞や雑誌で「20世紀は戦争の世紀」といった特集が組まれました。何故か? 軍事政権であるため、情報が出てこないからです。

現在問題になっているのは2015年の「ロヒンギャ難民」の流出ですが、実は経済のTPP(アジア・パシフィック・パートナーシップ協定)とも関係があります。2017年8月にロヒンギャの武装勢力が軍施設・警察施設を襲撃し、その内のほんの一部がテロリストへと変貌しました。

現在バングラデシュ側に70万人もの難民が流出してます。「ロヒンギャ難民」と資料に書かれていますが、これをだいたいクリアした上で、今日の「ロヒンギャ問題」があります。特に今日は軍事政権とロヒンギャの構造的な差別についてお話ししたいと思います。

軍事政権の首班であったタンシュエ上級大将は、時代劇の悪徳商人の越後屋然としたいかにも悪そうな顔をしていますね…。その後を引き継いだのがテインセイン大統領です。この写真は、2011年に撮影されたものですが、軍政から民政へ移管される際に、ミャンマー政府が、当時野党であったNLD(国民民主連盟)代表で、それまで自宅軟禁状態だったスーチーさんを招いて、テインセイン大統領が「これからは共に国づくりをやっていきましょう」と、大統領執務室で並んで写真に収まっています。この写真だけを見ると、両者が和解し雪解けの印象を与えますが、実は問題はこの2人ではありません。先ほどのタンシュエ上級大将の写真とこの写真の一番大きな違いは、大統領執務室の背後の壁に掲げられている肖像写真が、スーチーさんのお父さんで独立の英雄であるアウンサン将軍の肖像写真ということです。

アウンサンスーチー女史とテインセイン大統領アウンサンスーチー女史とテインセイン大統領

何が違うかというと、どちらもアウンサン将軍の肖像写真なのですが、こちらは軍服を着用し、こちらは軍服を着用していません。アウンサン将軍はもともと軍人でしたが、その後半生は軍人ではありません。軍人のトップから政治のトップへと変わった際に「軍人は政治に関わってはいけない」というメッセージを発するために、軍服を脱いだのです。しかし、ミャンマーの一般市民はそのメッセージに気付いておらず、いまだに彼のことを「アウンサン将軍」と呼んでいます。ずっと独立の英雄で神格化されていることもその理由のひとつですが、「この写真が持つ意味合いが解りますか?」と尋ねても答えられない人が多い。それは、50年間にわたって軍事政権下で洗脳されてきたミャンマーの人々にとって「自分で考える」ということが、実は非常に難しいからです。

自分の頭で考えられないミャンマー人

ミャンマーの難民の方々が1990年代初頭から日本に来ていますが、外国で暮らすということで、さまざまな問題が発生し生活ができなくなる方が少なからず居られます。もちろん、難民はミャンマーからだけではなく、中東、アフリカから来られる難民の方も居られますが、東京の心理学の医師によると「ミャンマーから来られる難民の方々はちょっと違う」と言われます。例えば「何を食べたい?」や「何処へ行きたい?」といったように、自分の意見を聞かれることが非常にストレスになるそうです。軍事政権下ではそういった自由は一切与えられませんでしたから、いざ軍事政権下から一転して「自由」な日本へやって来ると、自分で選択しなければならない場面に数多く遭遇しますが、今度はそれが新たなストレスになる…。

こちらの写真は民衆の活動家で、こちらはスーチーさんの政党の事務所です。向こう側に見えるのがMI(ミリタリー・インテリジェンス)と呼ばれる軍情報局のスパイです。私は活動家ではないので、もちろん民主化勢力の人々の話も聞きたいですし、一方で、MIの人々の話も聞きたい。そこで彼らに囲まれての取材を試みたのですが、ここで取材している外国人は、私一人でした。そうすると、MIの人に肩を叩かれ、「お前も大変だな」というので何事かと思うと、彼らは私を日本のスパイと思っていたのです。監視社会、密告社会であるミャンマーでの取材活動は非常に難しいです。といっても難しいのは私自身の安全確保ではなく、話を聞かれる、写真を撮られる相手のミャンマー人の安全確保です。私は外国人ですから、たとえ捕まったとしても2、3カ月、長くても1年刑務所に入れば釈放されますが、現地の人の場合、10年から20年はざらです。

よくあるパターンは、後ろからバイクが付いてきます。東南アジアの国々、例えばバンコクやプノンペンに行くと煩(うるさ) いほどバイクが走りまわっていますが、ミャンマーのヤンゴンでは基本的にバイクは走っていません。バイクに乗れるのは政府関係者だけです。そして、このオレンジ色のバイクが警察関係者です。尾行に気が付くと、私は大抵タクシーを捕まえます。タクシーの運転手さんはその日暮らしの人が多く軍事政権に反対している人が多いので、「運転手さん、後ろから来ているんだ」と言うと「分かった、任せておけ」と彼らをまいてくれるのです。もし取材中にバイクにつけられたら、政府関係者にチェックされているということに気が付かなければなりません。

今から11年前の2007年に、日本人ジャーナリストの長井健司さんが民主化デモを取材中に殺されました。この写真は、ある所から入手したビデオから起こしたものです。実は、これは長井さんが殺される前日に撮影されたのですが、バイクに乗った人間が、取材者である長井さんの姿をチラッと捉えているのがお判りいただけるかと思います。ミャンマーを取材している者ならば、この時点で自分はレッドゾーンだと気付かなければならないのですが、長井さんはミャンマーでの取材はこの時が初めてでした。直接の原因ではないかもしれませんが、この段階でかなりの注意が必要でした。

天然資源が戦争の要因

ミャンマーにはさまざまな天然資源があります。軍事政権時代には欧米による経済制裁を受けていましたが、全く効きませんでした。何故か…? この辺りは天然ガスが出ますが、昔は石油、鉱山、翡翠、金、レアメタルがたくさん出ました。2010年頃には、ラカイン州において東南アジアで最大規模の天然ガスが出るようになりましたが、このことがロヒンギャ問題にも関連してきます。このラカイン州からパイプラインで原油を送るプロジェクトが2000年頃から始まっています。ご承知の通り、中国はめざましい経済発展を遂げていますが、まだまだ発展途上です。中国が中東から原油を輸入する場合、マラッカ海峡を通りますが、問題はこのインド洋側のアンダマン・ニコバル諸島…。マラッカ海峡には海賊が出没します。そこで、中国海軍もココ島に軍事使用権を得て、マラッカ海峡を警備しています。実際、去年からパイプラインの運用が始まりましたが、去年から今年にかけて、今度は道路と鉄道を作ろうという話が出ており、そのことがロヒンギャ問題をさらに複雑化させています。

北のカチン州ではロヒンギャに限らず内戦があります。私自身はずっと南部のカレン州で取材を続けてきましたが、内戦の取材でカチン州の前線へ赴くと「War(戦争)やConflict(紛争)という言葉を使わないでくれ」と言われます。彼らにとって、これはあくまで「Resistance(抵抗)」なんですね。カレンの人たちは、ビルマ軍が来るからそれを止めて抵抗しているだけだと言います。前線には地雷もあり、少年兵も居ます。しかし自分たちの村を守るために手に銃を取る厳しい現実があります。現在は、ミャンマー国軍と少数民族の武装闘争だけでなく、少数民族同士の争いも問題になっています。 私は内戦取材で従軍する時は、いろいろ話を伺う機会もあるのですが、いつも戦争に行ったおじいさんが話を聞きに来られます。その時にいつも「お前はビルマの内戦を知らないくせに、よく言うな」と言われます。確かに侵略戦争でした。1993年か95年ぐらいのことですから、もちろん時代も武器も違いますけれど、私は彼らに付いてジャングルを歩き、地雷のある所へも行き、実際に戦争の現場へと赴きました。その上で、敢えて「前の戦争(大東亜戦争)はおかしかった」と申し上げたい。ロヒンギャ問題を考える場合、われわれが問われているのは、まさにここなんです。

日本人が「ビルマ」と聞くと、まず最初に脳裏に浮かぶのが、昭和19年の「インパール作戦」でしょう。去年、NHKがインパール作戦に関する特番を制作しましたが、私の目から見て非常に不思議だったのが、確かに日本軍の兵士がビルマへ行き、白骨街道―私も歩きました―と言われるところを行った訳ですが、未だにそこで止まっています。というのは、実際に軍隊が数万人もしくは10万人単位で動いたら、現地の人から略奪したり殺したりと、多くの迷惑をかけているはずなのです。しかし、そういった報告がひとつとしてないのです。この20年、25年、泰麺鉄道の建設の話では、いまだに旧日本軍とオーストラリア軍とイギリス軍の兵士が握手していますが、十数万人のビルマ人がどんな被害を蒙ったのか、どんな生活をしていたのかについては一言も触れていません。

ロヒンギャのことを考える時も同じです。実は日本が仏教徒側を支援し、イギリスがイスラム教徒側を支援して、仏教徒とイスラム教徒が戦争をしたのですが、未だにその怨恨が残っています。今から7~8年前に、大東亜戦争中、日本軍が空爆を行っていたビルマとバングラデシュの国境―ここは日本ではほとんどお目にかからないラカイン仏教があります―へ行った時のことですが、そこで「お前が日本人なら」と、英語、ビルマ、バングラデシュのベンガル語で書かれた冊子をもらったのですが、パッと表紙をめくると「日本の空爆で亡くなったお祖母さんに捧げる」とありました。こういう事実もあるのです。

皆様よくご存知だと思いますが、ミャンマーの宗教のほとんどは上座部仏教で、その他にキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、そして精霊信仰(ナッ信仰)などがあります。これは今年3月に行った時の写真ですが、上座部仏教では遺体を焼いた後はホースで水をかけて遺灰を流して終わりです。仏壇もお墓もありません。これがミャンマーの火葬場ですが、焼却炉の右側に無造作に遺灰が積まれているのがお判りいただけると思います。こういう社会なんです。時折「日本とミャンマーは同じ仏教国だから仲良くできる」という方が居られますが、仏教のあり方はまったく異なります。

私自身は26歳頃からミャンマーに通って上座部仏教と付き合っていますので、人生の半分は、あちら側の社会にあるような状態ですが、上座部仏教に対する疑問の先に、個人的ではありますが、ある時フッと宇宙の果てが見えました。小学校の頃からずっと宇宙の向こうに何があるのだろうと思っていましたが、上座部仏教の世界で長く暮らしてみると「宇宙の成り立ちとはそういうことなのか」と、死生観がまったく変わりました。もちろん、肉親や友だちを亡くしたら喪失感も悲しみの感情も湧くのですが、「いのちとは何か?」という視点が変わったと思います。例えば、10年か15年ぐらい前に友だちに誘われて、12月25日にヤンゴンでクリスマス礼拝に行った時の話ですが、袈裟を身につけたお坊さんが居られたのでビックリしました。上座部仏教ですからミャンマーは宗教的には非常に厳しいですが、社会そのものは非常に柔軟といえます。

ここがラカイン州で、隣がバングラデシュです。ここにたくさん難民が出ています。バングラデシュは今はイスラム教の国ですが、実は、昔はすべて仏教国(アラカン)でした。バングラデシュには世界文化遺産として認められた遺跡が2つありますが、そのうちのひとつはダッカから北西約180キロに位置するパハルプールという仏教寺院遺跡群です。

隠された民族問題

次に「隠された民族問題」ですが、歴史的には一番最初、ポルトガルに支配されていました。ヤンゴンの北にポルトガル人の末裔が住んでいますが、彼らはクリスチャンです。10ほど村がありますが、そこには緑の目をしたビルマ人や、青い目をしたビルマ人が居り、日本風に言えば彼らは「隠れキリシタン」です。これはミャンマー最北部のカチン州の村に暮らすタロン族です。言葉は悪いかもしれませんが、彼らは成人しても身長が大きくならないのが特徴です。現在、タロン族はこの写真に写っているおじさんとお姉さんと妹のわずか3名しか居ません。この人たちが亡くなったら、タロン族というひとつの民族が滅ぶのです。

これは最北の村ですが、ここに暮らすのはチベットの人たちです。背後にはタルチョ(チベットの五色の祈祷旗)が見えますね。この写真をチベットの関係者に見せると喜ばれます。この村以外にも2つぐらいチベットの村があるのですが、彼らはミャンマー人として生活しています。正確には「ミャンマー国籍のラワン人」として生活しており、自分たちのことをチベット人とは言いません。何故か。中国は「チベットは中国固有の領土だ」と言っていますから、彼らがチベット人と名乗ってしまうと国境が変わってしまう可能性があるからです。彼らは中国国籍で暮らすよりも、ミャンマー国籍のラワン人として暮らしたい。もし、この辺りが揉めだしたら非常にややこしいです。実際、私もこの地域へ行くのに非常に苦労しました。

一般に「ミャンマーには135の民族がある」と言われますが、実際は135もなく、ビルマ、シャン、チンの三大主要民族と、モン、ラカイン、カレン、カヤー、カチンを含めた八大民族に分類されます。チンとはミャンマーで2番目に小さな州ですが、この中に53に区分けされた小さな民族がひしめき合っています。どういうことかと申しますと、例えば私は関西に住んでいる関西人という民族ですが、大阪、京都、神戸、それぞれ言葉が異なりますよね。また、「大阪人」や「京都人」と言いますが、神戸の場合は「神戸人」とは呼ばず「神戸っ子」となります。ここだけ見ても関西だけで3つの民族があると言えます。1970年代から90年代にかけて、ヨーロッパでは多くの民族紛争が発生しました。「ビルマ連邦建国以前の民族が言いたいことを言うと、国としてまとまりがなくなる。だから軍隊が必要だ」と、軍事政権は言い訳します。民族の数が多ければ多いほど、不平不満や言いたいこと、やりたいことが出てきます。十数億人の中国の民族の公式数は55~56なのに、5,000万人のミャンマーの民族数が135というのはおかしな話です。これは軍事政権が創り上げた、ひとつのまやかしです。これまでの話を前提として、ここからロヒンギャ問題に入って行こうと思います。

「民族」とは政治的に創られた概念である

「民族」や「国家」は創られます。例えば「民族」という概念ひとつとっても、政治的な民族と、文化人類学的な民族と、法的な民族はしっかり区別しなければなりません。どう違うのかというと、例えば、日本の北海道にはアイヌという先住民族が居ますが、新聞や雑誌やテレビで取り上げられる際、彼らは「先住民」と呼ばれたり「先住民族」と呼ばれたりします。英語だと“indigenous people”に複数形のsがあるかないかですが、これは小さなことのようですが、法的な話になります。例えばアイヌの場合ですと、日本で今年か来年中にアイヌに関する特別立法で「先住民族」という言葉を法制として入れようとしています。政府は2008年にアイヌを先住民族と認めていますが、法律に明記するのは初めてのことです。

何故、「先住民」ではなく「先住民族」なのか? どういうことかと申しますと、例えばアイヌの人々が住んでいる地域にダムを造ろうとすると、「ここにダムを造らないでくれ」と裁判所へ訴えても、それが自分の所有する土地でないかぎり、先住民のままだと権利の主張ができないためです。これが先住民族となると、裁判所は訴えられた場合、「あなたには訴える権利がない」と門前払いできなくなります。ですので、「先住民」と「先住民族」を政治的に見る時は、法的な地位がそれぞれ異なるため、区別が必要になります。興味のある方は『新・先住民族の「近代史」』(上村英明著)をご一読いただければと思います。

ここまでで「ミャンマー問題」がだいたい終わりましたので、次に「ロヒンギャ問題」に入っていこうと思います。繰り返しになりますが、問題が4つあります。ミャンマーには現地のビルマ語の国営紙が2種類、英字紙が1種類ありますが、ビルマ語版ではロヒンギャのことにはまったく触れていません。英語版は国際的な意味があるので、社会における問題意識に配慮してか、例えば「国軍とバングラデシュの関係を何とかしよう」といった風に、未だに「われわれはロヒンギャ問題に取り組んでいます」という記事が見受けられます。しかし、実際は国内外で温度差があり、ミャンマー国内ではロヒンギャ問題はほとんど問題になっていません。

先ほど民族と申し上げたのはここなんです。例えば、私たちにはテレビ、ラジオ、新聞、インターネットなどいろんな情報源がありますが、日本では、この問題を取り上げる時、大きく分けて2種類の表記があり、「少数派イスラム教徒」あるいは「ロヒンギャムスリム」と書かれる時と、「ロヒンギャ民族」あるいは「少数民族ロヒンギャ」と書かれる場合があります。NHK、日本テレビ、テレビ朝日、朝日新聞、毎日新聞、ヒューマン・ライツ・ウォッチなどが前者で、彼らを民族扱いしていますが、TBS、フジテレビ、テレビ東京や日経・東京新聞、赤旗、通信社、週刊/月刊雑誌、インターネットメディア、NGOは少数民族扱いしています。

いわゆるリベラルと言われるメディアでも、ロヒンギャを民族扱いしているのですが、これでは駄目です。先ほど、ちょうどスーチーさんが来日している最中だと申し上げましたが、メディアでは「スーチーさんはロヒンギャ問題に非常に頭を悩ませている」といった内容が報道されています。その際、ロヒンギャを民族扱いするかどうかは、そのメディアがキチッとしているかどうかによります。

ややこしいのが国連です。ビルマが英国から独立したのが1940年代で、1950年代には世界規模で民族独立の気運が高まりました。その頃ビルマはすでに軍事政権になってしまいましたから、国内問題はまったく外に出てきませんでした。しかし、国連がボタンの掛け違いで、ロヒンギャを民族扱いしてしまったため、問題が生まれました。現在、国連はミャンマー政権に対して「ロヒンギャ問題を何とかせよ」と言っていますが、事の発端が何であったか、国連は解っているのです。例えば、国連の文書は、国連の公用語である英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語で発表されますが、今回のロヒンギャ問題に関しては文書の原文が英語で作成されています。ややこしいのが、国連の日本語の広報用のウェブサイトでは「ロヒンギャ民族」と表記していることです。ちなみに英語で書かれた正式文書では“Rohingya Muslim(population/people)”と、複数形のsがない表記ですから民族扱いしていないことになります。しかし、それを日本語に訳す時に民族扱いしてしまっているのです。ここにトリックがあるのですが、メディアはそのことを知りません。

ここでロヒンギャの基本情報に立ち返ってみたいと思います。英語では「ロヒンギャ」、ビルマ語では「ロヒンジャ」と言いますが、語末のギャ、ジャは「人」という意味ですから、ロヒンギャとは、すなわち「ロヒンの人」という意味です。現在は「ロヒンギャ」のほうが通じますが、バングラデシュ人(ベンガル人)は昔はロヒンギャとは呼ばず「バーマジャ(ビルマ人)」と呼んでいました。日本では群馬県館林市に「ロヒンギャ」が集住していますが、館林で度々耳にする「ロヒンギャ民族を救え」とか「ロヒンギャ民族の権利」といった言い回しは、ロヒンギャの語源を踏まえると少々おかしな表現ということになります。もともとはバングラデシュやミャンマー西部のラカイン州の辺りが「ロハン」と呼ばれていたため、「ロハンの人」という意味で「ロヒンギャ」と呼ばれるようになったのですが、そうすると「ロヒンギャ族」というと「ロヒン人族」となってしまい、言葉の意味を知る者には奇妙に聞こえます。そのため、私はそのことをずっと言い続けてきたのですが、最近は「族」や「人」という言葉を付けず「ロヒンギャを救え」といった表現を用いるようになってきました。

ロヒンギャという民族は存在しない

ロヒンギャの人々は基本的にスンニ派のイスラム教徒です。ロヒンギャのことでいろいろ論争がありますが、その中には未だにロヒンギャの人々がスンニ派なのかシーア派なのかさえ知らない人たちも少なからず居ます。このようなことを言うとお叱りを受けるかもしれませんが、イスラム教徒の人たちはいろんなところで戦争をしていますが、一番大変なのは、実はイスラム教徒とキリスト教徒の戦争よりも、シーア派とスンニ派といったようにイスラム教徒同士の戦争なのです。ヤンゴンにはシーア派のモスクがあります。例えば中東シリアから大量の難民がヨーロッパへが向かっていますが、彼らは何故、すぐ隣の同じイスラム教の国であるサウジアラビアへ逃れようとしないのでしょうか。それは、その国がイスラム教の国であるかどうかよりも、軍事政権国家なのか、その地域が強権的な政治の支配下にあるのかといったことのほうが重要だからです。社会、国家体制の違いが重要なのです。

燦然と輝くシュエダゴンパゴダ燦然と輝くシュエダゴンパゴダ

ミャンマーの仏教には、シャン仏教、モン仏教、ビルマ仏教、ラカイン仏教の4つの流れがありますが、問題は最後に挙げたラカイン仏教です。例えばタイのバンコクにスワンナプームという大きな新しい国際空港が2006年に開港しましたが、スワンナプームは、もともと「黄金の国」という意味で、ミャンマーのモン族の昔のスワンナプーム王国の首都でした。タイもミャンマーも仏教国で、昔は国境がありませんでしたから、同じ仏教国タイの中心地バンコクにスワンナプームと名付けられた国際空港が開港したという訳です。

皆さんもヤンゴンに行かれると、街角にこういった祠がたくさん見られますが、これらはすべてナッ信仰(精霊信仰)で、基本的に約37の神様が居られますが、これもモン仏教の一部です。また、シュエダゴンパゴダや、今にも山から落ちそうなチャイティーヨパゴダ(通称「ゴールデンロック」)も、モン仏教の寺院です。ビルマ人は、「ミャンマーに来たら是非、シュエダゴンパゴダやチャイティーヨパゴダを訪れてください」と言いますが、彼らに「これはビルマの仏教ではなくモンの仏教でしょう?」などと言おうものなら怒られます。

これはマンダレーにあるマハムニパゴダですが、これはビルマ族がラカインに侵入して強奪してきたものです。私が「ミャンマーも民政移管したのだから、このマハムニパゴダもラカインに返したら?」と尋ねると、「これは既にマンダレーの象徴になっているのだから、返還はできない」と言われます。人口の8~9割が仏教徒であるため、ビルマ族やビルマ人はイコール仏教徒と認識されていますが、そのビルマ人の仏教徒の下にビルマ人のキリスト教徒、ヒンズー教徒、少数民族の仏教徒、ヒンズー教徒と続き、一番下の階層がロヒンギャ・ムスリムになります。言い換えれば、彼らは差別の構造の一番下になる訳です。

ロヒンギャ問題を考えるためのヒントロヒンギャ問題を考えるためのヒント

また、ミャンマーには6種類のムスリムがいますが、ロヒンギャ問題を論じる時に「ミャンマーにいる6種類のムスリムの違いが判りますか?」と尋ねると、大抵の方が「判らない」と答えます。(1)はバーマ・ムスリム(ビルマ人のイスラム教徒)で、(2)はインド=パキスタン・ムスリム、(3)は、中国の回教徒系のパンディ・ムスリムで、(4)はパシュー・ムスリム(マレー系)、(5)はカマン・ムスリムは中東から流れてきた人々で、(6)がロヒンギャ・ムスリムです。ちなみにミャンマーでイスラム教徒の方に「ロヒンギャ・ムスリムですか?」と尋ねると、大抵の方が知らないと答えます。

また後ほど詳しく説明しますが、ミャンマーにおいて「ムスリム」とは宗教ではなく、民族(ムスリム人)を指します。例えば1990年代にユーゴスラビアで、クロアチア人とボスニア人とセルビア人が戦争していましたが、その時もボスニア人は自分たちのことを「ムスリム人」と呼んでいました。同様に、ミャンマーでもムスリム人の中で、パンディ・ムスリムやパシュー・ムスリムやロヒンギャ・ムスリムに分かれているのです。つまり、ムスリム人の中のロヒンギャ(ロヒンギャ・ムスリム)と呼ばれます。ただ、ロヒンギャという言葉は非常にセンシティブで現地では使えないため、最近は「ラカイン・ムスリム」と呼ばれています。

ミャンマーはさまざまな問題を抱えているため、現在、日本も医療や教育等の分野で支援を行っていますが、私の知り合いの医療関係者がヤンゴンに健康調査に行った際にロヒンギャの人々の健康状態について尋ねたところ、「ロヒンギャという民族や人は居ない」と、プロジェクトそのものがストップされました。

民族問題は軍事政権が生んだ

今まで私たちは、ミャンマー北部のラカイン州を中心に見てきましたが、ここに非常に大きなアラカン山脈が南北に縦走し、この辺りがバングラデシュ国境です。私も3年前に車でこの山脈を越えましたが、今、多くの人々は中心都市ヤンゴンから飛行機でラカイン州に入りますが、アラカン山脈からラカイン州に入ると、そこには全く異なる世界が広がっています。先ほどミャンマーにはシャン仏教、モン仏教、ビルマ仏教、ラカイン仏教の4つの流れがあると申し上げましたが、それらは地政学的に隔てられていません。しかし、ミャンマーにはひとつだけアラカン山脈によって地政学的に隔てられたアラカン仏教があります。私は会う人ごとにいろんなことを尋ねるのですが、そのひとつが「あなたは何人ですか?」という質問です。

アラカン山脈がミャンマー主要部とベンガル湾岸のラカイン州を隔てているアラカン山脈がミャンマー主要部とベンガル湾岸のラカイン州を隔てている

10年ほど前は、カチン族の人は「カチン人」、カレン族は「カレン人」、シャン族の人は「シャン人」と答えましたが、イスラム教徒の人は、ロヒンギャに限らず「ムスリム人だ」と答えます。自分たちはひとつだという意識があります。その時に必ず出身地も尋ねるのですが、ヤンゴンで尋ねた時は「あなたはカレン州から来たのならば、もしかしたらクリスチャンですか?」と尋ねると「そうだ」という答えが返ってくる。そうやって、何人か、出身地はどこかを尋ね、そこから宗教が判ることで、ようやく会話が成立します。昔、イギリスがビルマで「民族」という概念を生み出しました。

そして今、何が起こっているかと申しますと、同じように「あなたは何人ですか?」と問うと、ほぼ95%の人が「ミャンマー人だ」と答えます。つまり、民族意識から国民意識へと変わってきているのです。1900年代初頭、最初にイギリスが来た当時は、ビルマの人々に共通の民族意識はなく、「山を越えた所に違う村があり、そこには違う言葉を話し、違うお祭をする人々が居るけれども、彼らもまた、仏教を信仰しているのだ」といったように、緩やかな繋がりを持った仏教社会でした。そこへ植民地支配をするためにやって来たイギリスは、人々から税金を取るために、「この言葉を話すあなたはカチン人です」と人々を区分けしました。少々ややこしい話ですが、その結果、民族は生まれたけれども、民族問題は生まれなかったのです。

民族問題が起こって民族同士で戦争になると、植民地経営ができなくなりますからね。民族問題が生まれたのは、ビルマ人自身による軍事政権になってからです。この事実も、最近になってようやく知られるようになりましたが、私が使っている前の前の教科書を使っている偉い先生は、長らく「ビルマの民族問題はイギリスが作った」と言っておられましたが、私はその度に婉曲的に「先生、それは違います」と言っていました…(笑)。

軍事政権の間、資料や情報がピタッと止まりましたが、ビルマと東パキスタン(現バングラデシュ)の国境線がいつ引かれたかをキチッと出している教科書はひとつもありません。因みに、日本語の資料では1966年になっています。ビルマの英連邦からの独立は1948年ですから、18年間、人々は自由に国境を往き来していた訳です。私がロヒンギャ論争をする時に、国境線がいつ引かれたのかと尋ねると、大抵の方が知りません。しかし、国境線がいつから存在するのかを知らないままでは難民の話はできないということになってしまいます。

四十数年間、ロヒンギャはずっと虐げられてきた訳ですが、そこへ入ってきたのがテロリストの小さな一派です。パキスタン生まれのロヒンギャの人がサウジアラビアに行ってお金を引っ張ってきて、ロヒンギャを焚き付けました。この四十数年間、ずっと虐げられてきたロヒンギャは、にっちもさっちもいかなくなり、軍の施設などを襲ったのです。これは2012年から始まり、2018年現在に至ります。対立の構造は、実はロヒンギャとラカインの対立です。どういうことかと申しますと、アラカン山脈に隔てられて、ここは独自の仏教社会が形成されていました。一方、ロヒンギャは海に面しているため、ミャンマー政府に属さなくても経済活動は十分できます。独立することも可能です。このアラカン山脈以西のラカイン州が独立して自治権が強くなると大変だと、軍事政権は、絶えずここでひと悶着起きるように、わざとロヒンギャとラカインの人々を対立させたのです。実際、ロヒンギャとラカインの人々は、それほど仲が良くなく、ビルマ人はラカイン人を怖がっている節があります。2、30年前のビルマの本によりますと、「ジャングルでコブラとラカイン人に会ったら、ビルマ人は最初にラカイン人を殺す」という言い伝えがあったほどです。このロヒンギャとラカインの対立の後ろに居るのが、ビルマ族であったりミャンマー政府だったりします。

では、ラカイン人は何故、ロヒンギャの人々をそこまで虐げるのでしょうか? 一部のロヒンギャの人々が、ロヒンギャ民族として「俺たちは、昔から何世代にもわたってここで暮らしてきた民族だ」、「俺たちの権利を保障しろ」と主張しますが、もう一方のラカイン人は「それは違う。それは歴史の書き換えだ」と応酬します。ラカイン人は仏教に帰依する気持ちが非常に強いのですが、仮にロヒンギャの人がロヒンギャ民族ということになると、そのあたりの仏教遺跡はすべてムスリムの遺跡になってしまいます。ビルマ人と比較しても非常に敬虔な仏教徒であるラカイン人は、そういうことを言う一部のロヒンギャに対して「何ということを言うのだ」、「ロヒンギャは民族を名乗るな」と強く反発します。ここで言えることは、ロヒンギャは民族を名乗ってはいけないということです。私はさまざまなロヒンギャの人々に話を聞きましたが、「あなたが名乗るとすれば、ロヒンギャ・ムスリムなのか、それともロヒンギャ民族なのか」と尋ねると、ほぼ9割の人は「ロヒンギャ・ムスリム」と答えます。彼らにとって一番大切なことは、ムスリムとして生きていくことなのです。 

ロヒンギャの欲しいのは市民権

ミャンマーは開国して間もないこともあり、そのあたりがなかなか伝わっていません。これまでの軍事政権下では「ロヒンギャが民族を名乗り始めたから、ロヒンギャを追い出せ」と言っていましたが、では当のロヒンギャの人々は何を求めているのでしょうか? それは「市民権」です。一部の人々が外国から煽られて武装勢力になっていますが、大半の人々が欲していることは市民権を持った人として、つまりミャンマー連邦共和国の国民としての権利であり、「民族としての権利は要らない」という人がほとんどです。そういうことが判り始めたのは、まだここ2、3年の話です。

先ほど「上座部仏教国のミャンマーには、仏壇もない、お墓もない」と申し上げましたが、もうひとつ大きな違いを挙げましょう。先ほど話に出てきたタンシュエ上級大将という独裁者の下にいた軍事政権時代の軍のナンバー3―事実上のナンバー2―のキン・ニュンは、軍事政権時代の情報局のトップでした。敵の民主活動家の情報だけでなく、味方の情報もすべて把握しています。この人は今、ヤンゴンでギャラリーを開いて普通に暮らしています。もしこれが中東やアフリカだったら、政権が変わったら前の独裁者は市中引き回しの上殺害されるところでしょうが、彼は普通に暮らしています。これがミャンマー社会なのです。何故、そこまで寛容になれるのかと思います。

一方、右側の写真は、アシン・ウィラトゥ師という「ミャンマーのウサマ・ビンラディン」と言われている急進派の仏教僧で、「ロヒンギャがミャンマーをイスラム化しようとしている」と、排斥を煽動し問題になっています。彼はマンダレーにある5,000人の僧侶を抱える大きな僧院に自身の宿坊を持っていて、直接の弟子も3、40人居ますが、この僧院にムスリムの焼き討ちに遭って殺された仏教徒の虐殺写真を飾っています。直接の弟子でなくとも数千人の僧侶が毎日これを目にする訳ですから、静かな洗脳です。実際に行って目にすると、その写真の生々しさに驚きます。実際は仏教徒側も同じようなことをしているのですが、こういった写真や映像がインターネットで出回ると、「ムスリムはなんて酷いことをするんだ」と、仏教徒の人々は煽られるのです。

ミャンマーの事実上の最高指導者となったアウンサンスーチーさんがこのロヒンギャ問題に対して沈黙を守っていて何も言わないと言われていますが、実際は発言しています。しかし、日本のメディアはロヒンギャ問題をほぼ理解しておらず、彼女の発言を取り上げていないだけなのです。彼女は長らく自宅軟禁されていたので、一般的に「人権活動家」や「非暴力主義者」とみなされることが多いですが、彼女は基本的に「政治家」です。スーチーさんは2、30年前の非常に軍事政権が厳しかった頃にインタビューを受けているのですが、その中で「もし、あなたが国のトップならばどうしますか?」という質問がありました。これは非常に嫌な質問です。国のトップに立つ人は軍隊や警察を動かさなければいけませんし、もしデモが発生すれば、これを鎮圧するために治安部隊を出動させますから、暴力沙汰になります。もし彼女が非暴力主義者ならば、そのようなことはできないはずです。この質問にスーチーさんは「それは、政治家という職業に伴う、ある意味危険なことですが、私はその危険を引き受けます」と明言していました。

では、私たちに何ができるのでしょうか。例えば、日本もいろんな人権条約を結んでいますが、ミャンマーは現在、4つの国際人権条約を結んでいて、そのうちの1つが「子どもの権利条約」です。国際法は国内法より上位の法体系で、「子どもの権利条約」には、「その土地で生まれた子供を無国籍状態にしてはいけない」という条項があります。ミャンマー国内で生まれたロヒンギャの人たちは、ミャンマー国籍を与えられるというより、持つ権利があるんです。日本のメディアはそのような事実を取り上げませんが…。また昨年、ロヒンギャ問題が起こる前にミンアウンフライン国軍司令官が来日しているのですが、日本政府は国軍に対して一言も言えませんでした。以前、「ロヒンギャ問題は日本の部落問題に似ている」と言った人がいましたが、日本の部落問題はもっとややこしいですね…。

ロヒンギャ問題は、宗教や生活習慣の違いが問題です。ずっと昔にバングラデシュから流れてきたロヒンギャの人々は、基本的にビルマ語を話さずベンガル語を話します。いわゆる「ロヒンギャ語」は、実際はベンガル語の方言の一種です。言うなれば、ロヒンギャ問題は、民族問題や宗教問題ではなく、国籍、市民権、国づくりの問題です。今ちょうどミャンマーは国づくりの真っ最中で、その中心となる課題に重きを置くために目を瞑っている小さな問題のひとつなのです。例えば、インドのマハトマ・ガンジーは、対立していたイスラムとヒンドゥーの和解のために、イスラム教徒の多い地域では彼らの自治を認めましたが、これも国づくりのためです。

今必要なのは、事実関係からロヒンギャの人々が何を求めているのか。日本は何ができるのか。そういったことをひとつひとつ検証しなければなりません。問題は、日本にはロヒンギャの専門家が居ないことです。私は昔からカレン族の武装闘争の取材をしていたのですが、10年ほど続けた頃に「カレン族だけ取材していても問題の本質が判らない」と思い、結果的にミャンマー全土を巡ることになりました。ロヒンギャ問題も同じで、ロヒンギャのことだけを取材していても、問題そのものの解決に至ることはできません。視野をミャンマーの社会性にまで拡げてひとつひとつやっていくしかないと思います。ミャンマーは、民政移管したことによって、これからもくさん問題が出てくると思いますが、まだしばらくミャンマーは過渡期にあるといえます。繰り返しになりますが、われわれのミャンマー理解は未だ不十分です。また別の機会があれば、ゆっくりとお話をさせていただこうと思います。ご清聴いただき、有り難うございました。

(連載おわり 文責編集部)