国際宗教同志会平成31年度総会 記念講演

カトリック教会と諸宗教対話

カトリック大阪大司教区諸宗教対話委員会 委員長
ロッコ・ビビアーノ

2018年2月5日、金光教泉尾教会の神徳館国際会議場において、国際宗教同志会(芳村正德会長)の2019年度総会(議長は村山廣甫常任理事)が、各宗派教団から約50名が参加して開催された。記念講演では、カトリック大阪大司教区諸宗教対話委員会委員長のロッコ・ビビアーノ神父を招き、『カトリック教会と諸宗教対話』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する

宗教対話とは何か

ロッコ・ビビアーノ氏

ロッコ・ビビアーノ氏

皆様、こんにちは。素晴らしいご紹介を有り難うございます。4年前に来日したのですが、その時点で42歳でしたから、一から日本語を習得するのは容易ではありませんでした。ですので、今日もお伝えしたいことがたくさんありますが、皆様に巧くお伝えできるかどうか判りません。拙い日本語ですが、お許しいただけたらと思います。今日取り上げるのは非常に大きなテーマです。以前、私がカトリック教会の立場から諸宗教対話の神学について教えていた時、フィリピンの大学では44時間かけていますし、英国の大学では同じ内容のセミナーを12週間かけて教えていました。それだけ内容が濃いテーマですので、本日は、わずか1時間の中で、この話のエッセンスをどれだけお話しすることができるか心許ないですが、まずは私と諸宗教対話についてお話ししようと思います。

カトリック教会は、1962年から1965年にかけて開催された第2バチカン公会議以後、現在に至るまで、本当に諸宗教対話を大切にしています。これは公式レベルの話であって、普通のカトリック信者はその神学的な理由もよく解りませんから、諸宗教対話はあまり解らないという人が多いです。私は神学生だった時にイタリアで宣教師として召命(しょうめい)(註:司祭や修道士に召し出されること)を受けましたが、その召命の中で、「諸宗教対話」という特別な召命を見つけました。当時、私は20歳でしたが、実は、これはイタリアでは珍しいことです。と申しますのも、イタリアは他宗教の方はあまり居らず、国民のほとんど全員がカトリック教徒です。そのため、日常的に他宗教の方と出会う機会は非常に少ないのですが、その時、私は神様からの呼びかけがあったと感じました。その時から「諸宗教対話について、もっと学びたい」という気持ちがありました。1998年から諸宗教対話のことを考えて、経験を重ねました。今、カトリック教会は本当に諸宗教対話を大切にしています。ひとつの証(しるし)は、三宅善信先生がおっしゃったように、大阪大司教区にとどまらず、世界中の司教区地区のレベルで諸宗教対話の担当者が任命されています。これはカトリック教会が諸宗教対話を大切にしていることの証(しるし)のひとつであって、その他にも教皇様の方針、行幸、説教など、いろいろな形を通じて諸宗教対話の大切さを伝えています。今日はその始まりについて考えてみたいと思います。

諸宗教対話について熱弁を揮うビビアーノ神父諸宗教対話について熱弁を揮うビビアーノ神父

第2バチカン公会議の『ノストラ・エターテ(我らの時代に)』という公文書は、カトリック教会の立場から見ると諸宗教対話の基礎です。それを知らないと、カトリック教会の中でも『ノストラ・エターテ』の内容、背景、歴史、神学の理解に努めなければ、たとえ諸宗教対話を大切にしたとしても対話をすることはできません。『ノストラ・エターテ』を詳しく見る前に、簡単な質問をしたいと思います。諸宗教対話とは何でしょうか? もちろん、カトリック教会の中では明確になっていて、神学的なレベルでも多くの著作があり、教会の教えも多くあります。これを短くまとめたものが、本日事前に配布していただいた資料になります。1991年にローマ教皇庁の諸宗教対話評議会から『対話と宣言』という公文書が出されました。その九章の中で、諸宗教対話に関する姿勢が簡潔に書かれています。

対話とは、様々な意味で理解されうる語である。

(A)まず第1に、単なる人間的なレベルにおいては、それは共通の目的のため、またはいっそう深いレベルで行われる個人と個人との間の交わりのための、相互のコミュニケーションを意味する。

(B)第2に、対話は教会の福音宣教の使命を遂行するために行われるあらゆる活動に浸透する、あるいは浸透しなければならない尊敬と友情の姿勢を意味することができる。このことは適切に「対話の精神」と呼ばれうる。

(C)第3に、諸宗教の共存というコンテキストの中で、対話は(4) 真理を求め、(5) 自由を尊重して、(3) 互いを理解し豊かにするために行われる、(2) 他宗教の信者個人や信者共同体との(1) あらゆる積極的で建設的な関係 を意味する。

それは2つのこと、すなわち、(6) あかしと(7) それぞれの宗教的確信の探究とを含むのである。

本文書は、教会の福音宣教の使命の本質的な一要素を指すために、対話という語をこの第3の意味で用いる。

まず第1は、「人間的なコミュニケーション」です。対話そのものは普通のことで、基本的にどの文化においてもどの社会においても、人と人が出会えば「対話」が生まれます。第2は、もう少し深いレベルになります。第1が人間としてのポイントだとすると、第2はカトリック教会のキリスト教の立場から見た大切なポイントです。教会は使命を果たす時、働く時、常に対話の精神で行います。それはどのレベルにおいても言えることで、例えばカトリックの医師や看護師は対話の精神で医療に従事します。福音宣教の時、歴史的に間違いがありましたけれど、その対話の精神は重要です。自らの信仰を証(あかし)する時に、相手の信仰を解ることも必要であり、「聞く」と「話す」は一緒です。この『対話と宣言』九章の中で核となるのは、カトリック教会の立場から見た「対話」に対する姿勢です。第3に、諸宗教の共存というコンテキスト(文脈)の中で「対話」の意味について書かれていますが、例えばキリスト教の方とイスラム教の方が会って一緒に何かをしても、それがすなわち諸宗教対話という訳ではありません。諸宗教対話という時は、何か特徴が必要です。それが認められれば、そのやり取りや関係は、諸宗教対話であると言うことができます。

まず大切なことは、真理を求め、信教の自由を尊重し、互いを理解しながら互いの豊かさを交換することです。対話は他宗教の個々の信者、もしくは信者の共同体レベルでも行うことができます。大切なことは、その対話を通じて協力し、互いを理解し、互いの信仰の豊かさを感じつつ、何らかの建設的な関係を創りあげてゆくことです。ですから、例えばキリスト教とイスラム教の学生たちが、眠れない夜に一緒に居酒屋に行ってお酒を飲み交わしても、それが諸宗教対話だとは言えません。つまり、それが異なった宗教同士による対話であればなんでも良いという訳ではありません。例えば、カトリックでも浅いレベルに留まる「対話」もあります。カトリック教会の中では諸宗教イベントが多くありますが、その内の6割のイベントは一緒に集まって一緒に食事を摂り、ニコニコしながら挨拶を交わし「ご家族の方は元気ですか?」と尋ねるぐらいで、それぞれの教会やお寺に戻った後に何も変化はありません。悪いことではないけれども、本当の諸宗教対話の活動はもっと深いものです。もちろん、少しずつ積み重ねていく必要がありますが、そのレベルで止まってしまったら真の諸宗教対話とは言えません。

第2バチカン公会議

先ほど述べたように、カトリック教会は諸宗教対話を大切にしていますが、最初からそのことを理解していた訳ではなく、2000年経って初めてその大切さが解ってきました。ですので、カトリック教会の諸宗教対話に対する姿勢は、長い信仰の旅の結果なのです。最初、他の宗教に対するカトリック教会の姿勢は決して良いものではありませんでした。歴史的な理由もありますし、神の言葉である聖書の解釈も変化していきますので、少しずつ理解も深まり、より神の意思、神の御旨が解るようになってきました。昔から比べると大きな変化があり、それを現したものが第2バチカン公会議です。第2バチカン公会議が始まりなのではなく、それに先立ち30年、40年、100年も前から教会の中で他の宗教の大切に思い、諸宗教との交流を経験した人たちが存在し、それが時間を経て教会の中での運動になりました。その流れが川のように第2バチカン公会議へと影響を与えたのです。

第2バチカン公会議は、ヨハネス23世の基本的な心の姿勢から生まれたものですが、歴史的には1962年に始まりました。ヨハネス23世はその必要性を提言したのですが、そのきっかけとなったのが、さらに17年前の出来事である第2次世界大戦です。この公会議は毎年開かれる訳ではありません。例えば、第1バチカン公会議が開かれたは1870年ですから、90年も前のことです。その前のトリエントの公会議はさらに300年前のことです。カトリック教会は、ある歴史の中で何か大切な、大きな変化があった時に公会議を開きます。当時、世界大戦は大きな変化の証(しるし)であり、世界も大きく変化しました。そのため教会は、世界に対する姿勢、働き方、理解をもう一度考え直す必要がありました。その時の基本的な神学的な理由は非常に大切ですが、これを端的に述べるならば、カトリック教会とキリスト教の存在する理由は、神様からもらった使命を果たすためであり、この使命はすべての人が救われることを誓うためです。私たちが信じる神様は全世界の超越者ですから、人類のすべてが神の子どもです。神様は愛し、皆の救いを望んでいるのですが、そのことを知らない人々が多い。その神の愛を知らない人々に誰かが伝える必要がある。そのために、カトリック教会とキリスト教は存在します。

しかし、世界に愛のメッセージを伝えるためには世界のことを解らなければいけません。その世界の働き方、動き方が大きく変化したならば、それに応じてカトリック教会の働き方も変わるべきです。その一環として諸宗教対話も起こりました。長い話になりますが、4年間にわたった第2バチカン公会議の結果が、この16の公文書です。さまざまなことが書かれていますが、その中のひとつが『ノストラ・エターテ』で、カトリック教会と他宗教の関係について書かれたものです。『ノストラ・エターテ』は、わずか2ページで印刷できる短い文章ですが、16ある公文書の中で最も大切な教えで、その中に諸宗教対話に関する章があることは本当に珍しく、その大切さを表したものだと思います。『ノストラ・エターテ』は、基本的にヨハネス23世の心から生まれた文章です。

時間がないので、簡潔にまとめていこうと思います。カトリック教会内におけるヨハネス23世のニックネームはイタリア語で「il Papa buono」(the good Pope)です。彼はとても人間的で、誰に対しても豊かな愛を表す人でした。あの時まで、さまざまな理由で教会と世界の間に「壁」があったそうです。内側(教会)に居る人々は、外側(世界)のことを何かしら劇のように考えていた人が多かったため、現代世界に対して否定的(ネガティブ)な姿勢でしたが、ヨハネス23世の考え方は全く違いました。全世界は神様によって創られたものですから、たとえどの場所でも、教会の外であっても、どの文化でも、どの人の心の中でも、どの宗教であっても、神の暗示(インプライ)、神の手が見える。世界は神が創った証(しるし)がありますから、カトリック信者の姿勢は最初から肯定的(ポジティブ)にならねばなりません。もちろん、キリスト教が迫害されるようなことがあれば、また異なりますが…。カトリック信者の基本的な姿勢はポジティブなものです。何処にいても神様に出会うことができますから、世界は良いものです。だからもっと肯定的(ポジティブ)な姿勢を持って、教会と世界の関係をもう一度考えましょう。文化や宗教は、その世界の中にある大切な要素ですから、他宗教との関係を考えることは必要ということです。しかし、初めからカトリック教会とすべての宗教の関係が考えられていた訳ではありません。

▼キリスト教徒はユダヤ人から始まった

一番はじめは、カトリック教会とキリスト教の他教派との関係、それから、キリスト教と歴史的に関係の深いユダヤ教との関係を考え、さらに、同じ一神教のイスラム教との対話へと少しずつ発展させ、それに続く形で、キリスト教とすべての宗教の関係を考えるようになったのです。何故でしょうか? ご存知の方も多いと思いますが、キリスト教はイエス・キリストから始まった宗教ですが、私たちは「宗教」という言葉を使いません。聖書の中で、キリスト教は「道」として説明されています。この宗教はキリストから始まりましたが、神様であるキリストは私たちと一緒に歩くために人間となり、「新しい宗教」を創立する予定はありませんでした。キリストはユダヤ人として生まれましたが、その時に至るまでユダヤ教の中に神様の言葉に対するさまざまな勘違いがあり、イスラエルの基本的な使命を忘れてしまっていたので、彼(イエス)の目的はその理解や考え方を直したいという思いがありました。大半のユダヤ人は、キリストを本当の救世主(メシア)と信じなかったので、信じた人たちだけによって「新しい共同体(=キリスト教会)」ができてしまいました。キリスト教のルーツはユダヤ教にありますけれど、その時からキリスト教徒とユダヤ人は敵になりました。

第2次世界大戦後、ホロコースト(註:ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺)のことが公になった時、全人類は大きな衝撃を受け、教会も大きなショックを受けました。その時まで、教会はユダヤ人を現実世界における隣人としてではなく、何かしら観念上の隣人として捉えていましたが、その時、彼らを「本当に苦しんだ生身の人間」として、自分も教会も信者たちも、「ナチの反ユダヤ主義を見過ごしてきたことに対して何らかの責任がある」と感じました。欧米では実際、それまで反ユダヤ主義の人は多かったのですが、ホロコーストをきっかけに自らの信仰をより深く理解しようと、もう一度聖書に立ち返ろうということになったのです。私たちの信仰は聖書に基づいていなければいけませんが、反ユダヤ主義のきっかけは、そんなことは聖書にまったく書かれていないにもかかわらず、皆そのことを知りませんでした。

自分たちのさまざまな行動を見直す必要があったため、ヨハネス23世は『ノストラ・エターテ』を望み、ドイツ人のイエズス会士であったアグスチン・ベア枢機卿に「私たちは第2バチカン公会議で、私たちキリスト教徒とユダヤ人のことを考えるための草稿を準備してください」と、お任せになりました。カトリック教会はローマに非常に有名な教皇庁聖書研究所を持っていますが、その研究所はカトリック教会で一番優れた聖書学の学者によって構成されています。その研究所から「教皇様、司教たちも神父たちもユダヤ人について間違ったことを教えています。この人はろくに聖書を読んでいないのに、選挙の時に馬鹿なことばかり言います。信者たちもユダヤ人について悪いことを聞けば、彼らの姿勢も悪くなります。ですから、キリスト教とユダヤ教の関係を、今一度聖書に基づいて考えましょう。実は、私たちキリスト教のルーツはユダヤ教にありますから、私たちのユダヤ人に対する姿勢は良くなるべきです」というリクエストがありました。それが始まりです。

第2バチカン公会議の中で、『ノストラ・エターテ』の起草の歴史はとても長いです。4年の間に、何度も何度も原稿を書き直し、最後に何か精霊、神様のお働きがありました。ある時、会議の中で誰かから「もし、私たちとユダヤ人の関係が必要ならば、他の宗教との関係はどうでしょうか?」という意見が出され、そこからカトリック教会の視野が広がりました。これから私たちカトリックと各宗教との関係を考えなければいけないけれども、私たちは私たちが信じる神様の働きを見つけることができるのだから、その時から素晴らしい発展がありました。当初、『ノストラ・エターテ』は、カトリック教会とユダヤ人の関係に関するものでしたが、最後はカトリック教会とすべての宗教に関する公文書になりました。カトリック教会とユダヤ教の関係に関する記述が始まりですから、その部分が一番多くを占めます。

2番目がイスラム教との関係、そし仏教とヒンドゥー教との関係についても少しだけ触れられています。短い文章ですけれども、それはとても大切な部分です。仏教とヒンドゥー教がその他の宗教を代表して書かれていますが、文章の中で大切なことは、各宗教についての情報ではなく、私たちの信仰に基づいて、他の宗教に対する私たちの姿勢が変わったことです。私は、それがこの文章の大切さだと思います。そもそも短い文章ですから、具体的な宗教対話の方法論などに関する記述はありませんが、カトリックの諸宗教対話に関する神学的な基礎が示されています。諸宗教対話に必要なことは3つあります。ひとつ目は神学的な基礎です。カトリック教会はすべて聖書から始まります。神の言葉を読んで、神の言葉を理解し、行動を決めることが理想的なあり方ですから、神学的な基礎は大切です。2番目は心の姿勢、対話の精神です。宗教対話には精神、スピリチュアリティ(霊性)が必要です。3番目は具体的な姿勢や人間関係のスキル(技能)です。これらは短い文章ですけれど、『ノストラ・エターテ』の中で見ることができ、非常に重要な箇所といえます。

歴史的に様々な情報がありますが、ヨハネス23世は、第2バチカン公会議の会議途中で亡くなったため、その後をパウロ6世が引き継ぎました。このパウロ6世のサポートのおかげで『ノストラ・エターテ』を出すことができましたから、とても大切な存在です。このパウロ6世は教皇として初めて聖地イスラエルを訪問しましたが、その際にユダヤ人との関係が大切であることを知らしめました。もうひとつは、現在に至るまで存続している教皇庁諸宗教対話評議会です。この評議会は、パウロ6世が公会議の間に創立させました。機会があれば彼についてもう少しお話しさせていただこうと思います。


▼ノストラ・エターテ

『ノストラ・エターテ』の内容をいくつか見てましょう。本日お配りした資料には、1章と2章だけ書かれています。残り時間15分の中で何カ所か取り上げてお話しさせていただきます。まず、第1章は「はじめに」(序章)で、第2章は他宗教の形。ヒンドゥー教と仏教に関する情報や、キリスト教の呼びかけと義務について。第3章はイスラム教について。第4章はユダヤ人について書かれています。では、第1章第1段落を見てみましょう。

『ノストラ・エターテ』第1章
1.人類が日増しに強く結びつき、異なる国民間の交流が深まりつつある現代にあって、教会は、自らとキリスト教以外の諸宗教との関係がどのようなものかについて、より注意深く考察するものである。教会には、人々の間に、さらにまた諸民族の間にも、一致と愛とを促進するという責務があるが、教会がここで特に考察するのは、人々に共通なものや、相互交流を作り出すものについてである。

 

 

(連載つづく 文責編集部)