国際宗教同志会 令和2年度第2回例会 記念講演

コロナ禍中/後の日本の宗教はどうなる

東京工業大学教授
弓山達也

2020年6月3日、神徳館国際会議場において、国際宗教同志会(芳村正德会長)の2020年度第2回例会が、ソーシャル・ディスタンスを十分確保するため、各宗派教団から代表者のみを招いて開催された。記念講演では、東京工業大学教授の弓山達也先生を招き、『コロナ渦中/後の日本の宗教はどうなる』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する。

宗教との出会い

弓山達也氏
弓山達也 氏

ただ今、ご紹介にあずかりました弓山達也と申します。県境をまたいだのは3月半ば以来ですから、2カ月半ぶりでしょうか…。今日は新幹線の自由席を利用しましたが、一車両にわずか7人…。東京から新横浜に向かいながら「多摩川を越えるんだな」などと思いました(会場笑い)。

三宅善信先生からお声をかけていただいた時は、まだ新型コロナの感染拡大もそれほどではなかったため、その話には触れず「歴史的に宗教がさまざまな形に変わってきた」という話を考えていたのですが、今回のコロナ騒動の拡大を受けて「だったら、このようなタイトルが良いんじゃないか」という、私の手には負いかねるような大きなお題を頂戴しました。あらためて勉強する機会を得ましたこと、またこの機会に先生方からご教示を賜りますようお願いしまして、始めさせていただこうと思います。

大学で普段の講義をする時、私はどちらかというと学生たちの間に入って行って「君はどう思うか?」と尋ねながら講義を進めるタイプの人間なのですが、今日は皆様と距離(ディスタンス)を保つよう意識しながらお話しさせていただこうと思います。現在私は東京工業大学で宗教学を教えているのですが、何故そのようなことになったのかについて、まずお話しさせていただきます。続いて、感染症と宗教との関わりと、幕末のコレラ、大正期のスペイン風邪と宗教との関わりについて述べさせていただきます。その後、東日本大震災の後に震災後の新しい生活や価値観が大きくクローズアップされましたが、今回のコロナ禍でも、再び、同じように新しい生活様式が提唱されています。この「新しい生活様式」は上から降ってきた訳ですが、降ってきたものを私たちがどのように捉え直すのか。むしろ、私たち宗教に関わる人間が、上からではなく下から「新しい生活様式」を提唱することが求められているのではないか。今日はそういうことを先生方と一緒に考えてみたいと思います。

先ほど「弓山とは変わった名字ですね」と言われましたが、「弓山」は愛媛県新居浜市にしかない名字だそうです。東京には4軒ありますが、いずれも私の親戚です。父親は愛媛県出身で、祖父の代から理科の先生をやっておりました。母親は大阪市阿倍野区阪南町の町工場の娘として生まれました。どちらかというと宗教には縁のない生活を送っておりました。父親が転勤族だったため、私は奈良で生まれたのですが、奈良県出身だと申しますと「やっぱり宗教といえば奈良ですよね」と言われることがあります。けれども、実際は奈良には縁もゆかりもなく、その頃父親が鶴橋の工場で働いていたため、ベッドタウンだった菖蒲池あやめいけの公団住宅で生まれた次第です。

座席間隔を十分確保して開催された国際宗教同志会講演会の様子
座席間隔を十分確保して開催された国際宗教同志会講演会の様子

ただ、宗教とのご縁はいろいろといただきました。当時、私は今で言うところの多動症(ADHD)で落ち着きがなく、教室でも常に立ち歩いているような子供でした。そんな私を不憫ふびんに思った近所のおばさんが「こういう時は良い先生が居るよ」と言って、いくつかの宗教団体に連れて行ってくれました。覚えている限りですと、金光教の赤羽教会にはずいぶん長く通いました。それからPL教団から分かれた実践倫理宏正会──「朝起き会」で有名かもしれません──にも、朝早く起きて参加し、公園の掃除などやっていました。小学校の高学年から中学校にかけて、そういう宗教のご縁をいただきました。

大学は法政大学哲学科でいくつか挫折を重ねました。当時、80年代半ばで、オウム真理教などさまざまな新しい宗教が出てきた頃ですが、その時に「宗教って凄いんじゃないか」と思いました。というのも、哲学で命を落とした人はあまり居ませんが、宗教では多くの人が命を落としている。きっと宗教のほうが凄いんじゃないか…。そう思った私は宗教にグッと接近しました。その中には、この場では口に出すのがはばかられるような教団にもいくつか接触しましたが、幸か不幸か勇気がなかったために、宗教に入信することができず研究する道を歩みました。

大学院と、その後勤務させていただいたのが、東京で「おばあちゃんの原宿」として有名な巣鴨にあります大正大学という、天台宗、真言宗豊山派と智山派、浄土宗の四つの宗派によって創られた総合大学でした。最初、お坊さんになろうかと思ったのですが「師匠が必要だ」と言われ、しかも大抵の場合、師匠は父親だと聞き、それは無理だということでお坊さんになる道は断念し、新しい宗教現象を研究する道を選びました。新宗教、そして舌を噛むような話ですがスピリチュアリティの研究をさせていただいて、この10年ぐらいは宗教が持っている社会的力──例えば、ボランティアや社会貢献、震災後にさまざまな宗教教団が果たした役割──を研究することを専らとしております。

理工系の学生に宗教学を教える意味

では、何故東工大かと申しますと、5年前に大学のほうからお声が掛かりました。当時、東工大は「理系の知識だけでは駄目だ。文系の教養が必要だ」ということで、芥川賞作家など著名な方が多く招かれました。私は別段著名ではありませんでしたが、実務ができるだろうということで招かれました。

当初は理工系のエキスパートに交じって宗教学の授業をやって、本当に人が来るのかと思いましたが、1年生が1,000人ぐらい居る中で私の宗教学の講座を受講している学生が150人居ります。2年生は100人ぐらいで、3、4年生は140人、大学院生は80人から100人ぐらい居ります。驚いたことに、常時、各学年の約1割の学生が私の宗教学を受講している訳です。彼らに「どうして理工系の人間が宗教学の授業を受けるのか?」と尋ねてみると、多くの学生からは「今まで宗教に関わりがなかった。これからも宗教に関わることはないだろう。だからこそ、今この時に宗教のことを学んでみたい」という模範的解答が返ってきますが、その中で5%から10%ぐらいの学生が「神を証明したい」といったような、ビックリするような回答をします。

考えてみれば、ニュートンにせよ、ガリレオにせよ、コペルニクスにせよ、有名な科学者というのは、カトリックの神父だったり、自身が熱心な信徒だったりと、神学の素養があるんです。そういうことを知っている理工系のエリートは「自分も宗教のことを勉強しなければならない。むしろ数学を勉強することによって神を証明できるのではないか」ということを私に言ってくるんです。最初は馬鹿にしているのかと思ったのですが、どうやら本気でそう考えているようです。1,000人のうち5%ぐらいの極端に頭の良い人間は、宗教に強い関心があるという手応えがあります。

弓山教授の講演に真剣に耳を傾ける国宗会員諸師
弓山教授の講演に真剣に耳を傾ける国宗会員諸師

それから、講義だけではなく、少人数のゼミもやっております。ここ数年間は天理教のお正月行事に行ってみたり、高尾山の滝行に行ってみたりもしました。こういったプログラムはお金(実費)もかかる上に、お正月ですから東工大生はそれほど来ないだろうと思ったのですが、20人程の定員に70人の募集があったりして、選抜しなければなりませんでした。そういう学生さんたちが滝行を満行したり、天理教の朝のおつとめに出て、今までの自分にはなかった何かが開かれたような気がするということを言っております。

オンライン授業で得た気づき

(東工大では)私もこれまで教鞭を執っていた仏教系大学で宗教学を教えるのとはまた違った手応えがあり、充実した日々を過ごさせていただいておりますが、先ほど三宅善信先生の導入にもありましたように、今はソーシャル・ディスタンスを保たなければならないということで、大学でのクラスは全て閉鎖になり、学生とまったく会わずに、ズーム(Zoom)というオンライン(遠隔)でセミナーやミーティングを開催するために開発された双方向性アプリを使って講義をするようになりました。しかし、正直言って、コンピューター画面の向こう側に学生たちが居て、通じているのかいないのか、ほとんど手応えがない中で授業をやっております。

オンラインで授業を開始していから、いくつかの発見がありました。それには良いことと悪いこと、両方ありました。私はいくつかの大学で教えているのですが、一番残念に思ったことは、偏差値が高い大学はご両親がお金持ちだという学生が多く、偏差値が低い大学は、残念ながら、母子家庭や経済的に恵まれていない学生が多いということです。オンライン授業をやっていると歴然とした違いがあります。例えば、コンピューターが突然ダウンしたり、ネット回線が巧く繋がらなくなったりすることを「落ちる」と言うのですが、偏差値が高い大学では「落ちる」人はほとんど居ないのに、偏差値の低い大学の学生さんたちのパソコンは次々と「落ちていく」のです。

後者はさらに、オンライン授業を受ける学生の背後で妹さんが食事していたり、お母さんがお皿を洗っていたりと、自分の勉強部屋がないような学生も居ります。オンライン授業になって、これまで知ることのなかった彼らの生活感が伝わってくる中で、凄く残酷というか何か見てはいけないようなものを見てしまった気がして、「持てる者はさらに富み、持たざる者は服をも奪われる」(「マタイによる福音書」第13章第12節)という言葉が聖書にもございますが、そのような気持ちになります。

一方、良いこともあります。離ればなれになっていても学ぶことができるという環境は、十年後、あるいは十五年後に実現するのではないかと言われていましたが、それがこの数カ月間であっという間にできてしまったことに大きな驚きと可能性を感じます。宗教団体も、日々の参拝者が居られず、コロナが去った後に信者が戻ってくる確証もない。私はこの4月に、東京の天理教のある大教会に行きましたが、案の定、ご神前には信者さんがほとんど居られませんでした。そこで私が「でも今は参拝が少なくとも、コロナが去ったら皆さん戻って来られますよね」と申し上げたら、会長さんは「いやいや、そんな簡単なものじゃない。一旦教会から離れてしまった人が戻るのは、そう簡単ではないんだ」と言われ、あらためて現在の事態の深刻さを痛感しました。

ただ、そういったネガティブな面と共に、もしかすると、十年後の日本の宗教の形、二十年後の宗教の形を、この数カ月間でわれわれは獲得できる可能性もあるのではないかと思っています。今日は講題を『コロナ禍中/後の日本の宗教はどうなる』とさせていただきましたが、それは「こうなる」という予測をする訳ではなく、このような条件がある中で、先生方と一緒に考えたいというスタンスでお話をさせていただければと思っている次第です。

幕末のコレラ流行について

まず幕末と、百年前の大正時代に感染症が大流行した時に、人々がどういうものに祈願し、また何を求めていたのかということについて学んでみたいと思います。安政五年(1858年)から文久二年(1862年)の5年間に、日本ではコレラが大流行しました。百万の人口を擁し、当時世界最大の都市であった江戸も、4分の1を超える人々が亡くなったと言われています。これは私が調べた訳ではないのですが、ある先生がいくつか日本の主要な地点のお寺の過去帳を調査──今はできない調査方法ですが──したところ、明らかに死亡者が多くなっている年月日があるというのです。だいたいひと月の間に日本海側は長崎から始まり東北にかけて、徐々に多くの人々が亡くなっていく波があることが判ります。太平洋側も同じくだいたいひと月ぐらいで、九州の熊本から東北に至るまで、特定の時期にグッと多くの方が亡くなっています。

コレラ感染伝播地図
コレラ感染伝播地図

少し話が逸れますが、東京であれ、大阪であれ、現在、新型コロナウイルスの感染者数が毎日発表される度にわれわれは一喜一憂している訳ですが、さまざまな理由で亡くなった方の数を発表しないのは不思議だと思っています。だいたいひと月遅れで判るのですが、東京は、4月を去年の同月と比べた時、死亡者数が2割増しでした。ということで、「それ見たことか。政府は隠しているが、本当はコロナが大流行しているんだ……」とマスコミはあおりますが、死因別で見た場合、実際には、昨年はたまたま交通事故で亡くなった方が2割減でしたから、東京の4月の死亡者数がいつもの年より2割多い訳です。2割はかなりの数です。私は、新規感染者の数を数えるより、どれだけ多くの方が亡くなっているかを調べたほうがはるかに良いのではないかと思うのですが……。

先の話に戻りますが、コレラで亡くなったかは過去帳には記されていません。ですから、さまざまな理由で、しかし明らかに前年よりも多くの方が亡くなっていることから、コレラがどのように北上したのかを突き止めた非常に優れた研究だと思います。参考文献は、お手元に配った資料の一番最後のページに書かせていただきました。

今の私たちにとって東日本大震災は10年前の出来事ですが、多分百年後の教科書には、東日本大震災とコロナウイルスは同じ時代に起きた出来事と記載されるだろうと思います。幕末も、台風、東海地震、そしてさまざまな天災が発生した後にコレラ騒動が起きています。さらには黒船の来航もあって、人々の中ではこうした災害や海外から黒船がやって来ることが、一種の恐怖として受け取られ、次々と自分たちに災厄が襲いかかってくる一連の災いとして認識されていたようです。

少し見辛いですが、駿河国で大地震(安政の東海地震)が発生した際(1854年)、地面から泥水が噴き出している様子(液状化現象)が描かれています。その駿河国の2つの村に、コレラが流行した時の詳細な記録が残されています。下香貫村(現沼津市)では、皆がお金を出し合って京都の吉田神社を勧請しようとする記録が残っています。そして深良村(現裾野市)には、皆がお金を出し合った帳面(寄進明細帳)が残っていて、コレラ騒動がどんな風にこの村に襲いかかり、人々が右往左往して、京都の吉田神社を勧請したかについて、その様子が記されています。今でも深良村には「吉田様」というお宮さんが残っているのですが、人々がコレラを封じ込めることを期待していた記録を簡単に紹介させていただこうと思います。

安政の大地震
安政の大地震

下香貫村では、当たり前の話ですが、従来の漢方医や鍼灸医はもはや役に立たないので「是は神仏へ祈願するより外あるべからず」ということで、都で評判の吉田神社を勧請することが酒席で決まったそうですが、今でいうところの飲み会みたいなものでしょうか…。そういった皆で集まってお酒を飲んでいたところ、「これは都の吉田神社を勧請するしかない。俺が行くからお前が金を出せ」といったことが一晩のうちに決まり、翌朝には2人の代参者が吉田神社へ向かったそうです。一方、深良村では「狐疫(コレラ)騒動は狐の仕業ではないのか」とか「此世のまつする程のように思い」から、これは霊験あらたかな新しい神様を迎えなければならないということが村人から発議がありました。伝染病の蔓延で、当時も今のように国境くにざかいを越えての人々の移動は規制されていたため、この村では村人たちは国境を越えずに飛脚を使って吉田神社に代参をして、お宮様をお迎えするということをやっています。この時は村を挙げて大騒ぎでお迎えし、吉田神社(吉田宮)を造営して収めさせていただいたという記録が残されています。

この記録を見て面白いと思ったのは、実は2つの村とも亡くなった方が一人も居ないどころか、感染者の記録すらないのです。つまり、実際には感染者は一人も出なかった村なんですが、東海道の噂話、それから黒船がやってきたこと。御霊信仰ごりょうしんこうも海外からやってきたという風に捉えられているそうですが、この黒船のように海外からやってきたものが、同時に自分たちの身近な所に災いももたらすのではないか。近くで起きた大地震などの天災の記憶も生々しく、同じような災厄がいずれ自分たちにも降りかかるのではないか…。そのような村人たちのパニックの様子が、この記録から手に取るように伝わってくる訳です。

もちろん、村には以前からのお寺もあるし神社もあるのですが、ここで期待されているのは新しい霊力、新しい宗教的な力です。一晩のうちに代参者が決まり京都に向かう。あるいは、飛脚を立てて京都に向かわせる。あっという間に話がまとまって新しい霊力を求めていたというところに私は注目しています。同時に、この記録にはトラブルも書かれています。どのようなトラブルかと申しますと、吉田神社に行ったところ、「ご神体には5両と7両(註:現在の価値に換算すると、約12万円と約16万5千円)のものがあるが、どちらにするか?」と聞かれたそうなんです。5両のものはお札で、7両のものは木箱に入った何かですが、「お札は5両だ」と聞いてちょうど5両を携えて来た村人は困りました。高いほうが効きそうですからね…(会場笑い)。持ち合わせがないと思っていたところ、2人のうちの1人が、こんなこともあろうかと多めに持ってきたというので、7両の木箱を携えて村に帰りました。そして35両(約82万円)を費やしてお宮を建立したという記録が残されています。いわば「足元を見られた」訳で、この記録はどちらかというとネガティブに書かれていました。新しい神様をお迎えしようとなったけれど、そこに至るまでにさまざまなトラブルといいますか、村人にとって思いがけない事態も待っていたようです。

大正期のスペイン風邪の大流行

時代が変わり、大正時代へと話は移ります。スペイン風邪の話ですが、今からちょうど百年前のことになります。今日は『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』という分厚い本からいくつかデータを抜き出してきましたが、第一波で日本の人口の3人に3人、38%の人が罹ったと言われています。そして約5%の人が亡くなりました。大正七年と大正八年の終わりから大正九年の1月にかけて2回流行しましたが、今ちょうど「コロナの第二波が…」と言われているのは、このスペイン風邪のことが記憶にあるからだろうと思います。

(スペイン風邪は)第一波の後、さらにパワーアップした第二波が、第一波の時に罹らなかった地域で次々と感染していったと記録に残されています。例えば横浜の内陸のほうで、第一波ではほとんど感染者が出なかったけれど、第二波でほとんどの村人が罹ってしまったという記録もあります。第一波と第二波を合わせて、そして日本の内地と外地(註:台湾や朝鮮半島は、当時大日本帝国の版図だった)合わせて人口7,700万人のうち74万人、約1%の方が亡くなったそうですから、非常に猛威を振るった訳です。今、面白おかしくやっている番組で「マスクはこの頃流行った」とか「手洗い・うがいはこの頃スローガンで…」と言っていますが、いずれにしても100年前の話です。

この時期に、2つの著名な宗教団体が人々の注目を集めることになりました。ひとつは大本ですね。もうひとつは大正期に大本と論争を行った ―― 今はもうなくなりましたが ―― 岐阜の恵那に本部があった大霊道という教団です。スペイン風邪の真っ只中に聖師出口王仁三郎は、当時廃墟となっていた亀岡城趾に天恩郷を作る計画に着手しています。そして大霊道の教祖である田中守平は、恵那に大本院という洋館を建てています。この教団の特徴は何なのか。大本教団はいろいろな理屈があるので取り出すのはなかなか難しいのですが、出口王仁三郎は、スペイン風邪について以下のように語っています。「世界はかくとして日本内地に於ける恐るべき流行感染はしばら猖獗しょうけつ(註:猛威をふるうこと)の兆を現し、現に綾部から目と鼻との間に在る新舞鶴町にさへ、日々十人平均の死者が出来るように成った。今後気候の激変に連れて益々蔓延と共に悪性化せむとするで在ろう。国民は益々衛生上の注意を怠らざると共に正しき浄き神の信仰に依りて、心身の健全を計らねば成らぬのである。政府当局では愈々いよいよとなれば今度こそは総べての興行物を停止し、学校も休校を断行し積極的に防遏ぼうあつ(註:侵入や拡大を防ぎ止めること)の手段に出でいられたいと共に、敬神的の行動を国民が採る如うに注意して欲しい」(『神霊界』大正9年1月1日号)。簡単に言いますと「舞鶴では1日10人の人がこのスペイン風邪で亡くなっている」。王仁三郎は現実的な人ですから、「衛生的にしなければいけないのと同時に、正しき浄き神の信仰と敬神的な行動を取ることが極めて重要だ」といった発言をしています。つまり、マスクや手洗いと共に、神様への祈りが重要であると主張しています。

片や岐阜にありました大霊道の田中守平は、それを全面否定しています。「医療というものは、所詮対症療法に過ぎない。自分たちは人間の根源というものを解っていて、根源を直すことによってスペイン風邪を防ぐことができる」と言うんですね(「流感に対して現代の医術は何等の治療法を有して居らない状態である。(略)注射とかマスクとかいって、之れを一般世衆に強要して、(略)現代医術は対症療法(略)我が太霊道に於ては、現代医学に於けるが如く、個々別々の病理病原に就ての研究を重ぬる迂遠を為さず(略)我等の疾患は、生命そのものゝ本体たる或ものゝ活躍によりて癒され、またその活躍なくしては絶対に癒さるゝことはないのである」(『流感と霊子療法』)。いのちの根源とは何かというと、大霊道は「霊子」という言葉を使っています。「霊子」は文字通り霊なのでしょうが、われわれの肉体がいくつかの要素からできあがっていて、その核にあるものが「霊子」で、その霊子をコントロールすることによって、われわれは幸せになることもできるし、病気を防ぐことも治すこともできると主張しました。

この大本と大霊道はインフルエンザが流行はやる前から教勢が伸びてきて、大正時代に大きく発展することになります。大本は「鎮魂帰神」という、簡単に言うと相手にどのような霊が憑いていて、その霊を見極めることによって、その人の運命であるとか健康状態であるとか、そういう処方をするような宗教活動をしております。一方、大霊道は「霊子術」という、いわば瞑想法をやっていました。この2つの教団は非常に似たようなところがあったのですが、当然論争が起きました。2人の教祖が実際に直接相まみえることはなかったのですが、出口王仁三郎の一番弟子だった英語の先生で、浅野和三郎という当時横須賀の海軍機関学校の英語教官がいましたが、彼は超エリートで、日本で最初の英文学の博士号を取った方です。その方と田中守平が相まみえて、浅野和三郎が審神者さにわで田中守平が神主になって、田中守平に憑いている霊は何かと問うと「邪霊だ」と浅野和三郎は言う訳です。そういう対立もありましたが、いずれも大正期の終わりに出てきた教団でございます。

これらの新興教団には多くの人が集まりましたが、同時に頓挫せざるを得なかった。時代はシベリア出兵や米騒動が起きており、第1次世界大戦が終わった後の「戦後恐慌」と呼ばれた時代であります。そのような社会不安があって、さらにスペイン風邪も流行って、多くの人々が文字通り霊的な力を求めて大本や大霊道に走った訳です。しかし、大本はあまりに大きくなってしまったが故に、当時の司直から取り締まりを受けて、不敬罪と新聞紙法違反で出口王仁三郎は捕らえられ、後に新天地を求めて国外へ飛んでモンゴルで再び捕らえられたことで運動が頓挫します。大霊道は、大正四年に田中守平が急死したことで、教団自体が壊滅します。社会不安と病気で多くの民衆が霊的な力を強調する新しい宗教に向かっていきました。しかしその運動は、残念なことに弾圧を受けたり、不幸な事象があって頓挫せざるを得なかった。このことは先ほどの吉田神社の勧請と共に感染症が流行った時に人々が何を求めてどんな行動をするのかを考えるにあたって、ひとつの示唆になるのではないかと思います。

国難のたびに提唱された「新しい生活運動」

つい最近(政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議から)「新しい生活様式」という提言が発表されましたが、実は、新しくとも何ともありません。これまでお話ししたような日本全土を覆うような国難に際して、少なくとも3回ぐらい似たような「新しい生活運動」が提唱されています。3つございますが、ひとつ目はスペイン風邪の大流行があって、関東大震災がその翌々年に起こり、昭和恐慌が起きた辺りで、農村の「経済更正運動」が起こります。まず村々で「自分たちでお互い助け合って自立していきなさい」という運動が起こりました。終戦後には、GHQに主導される形で、日本の人々は民主的に合理的に近代化しなければならないという生活見直し運動、つまり「女性は自立したほうが良い」とか、「衛生的にしたほうが良い」とか、「かまどを改良したほうが良い」とか、「親分が威張っているような体制は良くない」といったような、民主的かつ合理的に日本を近代化する「生活改善普及事業」という運動が起こりました。この後に起こった新生活運動はオイルショック後にもう一度リバイバルするのですが、昭和恐慌とか、戦争が終わったとか、オイルショックとか、日本を覆うような国難が起きると、一般に「生活改善運動」と呼ばれるような運動が提唱されています。

一番新しいオイルショックの時のお話をします。これは決して宗教と無関係ではありません。この写真をお見せしたほうが分かりやすいかもしれません。今も続いているのですが「香典返しを止めましょう」とか、「結婚式を平服でやりましょう」とか、「成人式に晴れ着を着るのはやめましょう」とか、「冠婚葬祭を縮小しましょう」というのが、生活改善運動 ―― 新しい生活様式 ―― で、繰り返し繰り返し言われてきたことなんです。これは宗教界にとって無関係ではないと思います。そして、今般言われている「新しい生活様式」も、やはり宗教界とは無関係ではありません。

先ほど三宅善信先生が仰ったように、そもそも宗教を意味するレリギオという言葉は、ラテン語で「再び結び付ける」という意味があり、そもそも濃厚であることが特徴なんです。つまり、宗教とは三密を本質とするようなものなのです。しかし、「三密はいけない」とか、具体的に「冠婚葬祭を縮小しなければいけない」といった宗教の足元を揺さぶられるようなことが今までの生活改善運動でも、現在提唱されている新しい生活様式でも言われているのだろうと思います。そして、今日の趣旨になるのですが、そうなると宗教界が立ちゆかなくなります。のみならず、実は私の大学の教育も立ちゆかないんです。つまり、先ほど申し上げたような「合宿をやって滝行をしました」とか「天理教のお正月行事に行きました」といったことは、どう考えても三密なんですね。こういうことはできない…。つまり、「新しい生活様式」の提唱によって、宗教界も教育界も、なかなかままならない状況に陥っているのが現状だろうと思います。

それに対して私が考えていることはそうではなく、私たち自身が新しい生活様式を下から提唱していくことが重要ではないでしょうか。「お葬式は親族だけで執り行いなさい」とか「法要など宗教的なイベントは縮小しなさい」とか「お祭は中止しなさい」といったことは、何も「新しい生活様式」が今回のコロナ禍によって提唱されたからではないんですね。つまり、この20年間、お葬式はドンドン家族葬化し、最近は個人葬、直葬と言うのでしょうか。身寄りのない焼き場で終わるようなお葬式も出てきています。「新しい生活様式」が提唱されたことを受けて法事が縮小されたのではなく、もう20年間日本はその方向で動いてきたことを、われわれは知っているはずなんです。コロナ禍による「新しい生活様式」の提唱によってお祭が中止になったり、延期になった訳ではありません。この30年~40年の間、地方では御神輿おみこしの担ぎ手が居なくなったじゃないですか。神楽をはじめとする伝統行事の後継者が居なかったじゃないですか。つまり、「新しい生活様式」の提唱を待つまでもなく、法事も祭もジリ貧だったはずなんです。けれども、これといった打開策もないまま、われわれは黙って手をこまねいていました。

しかし「新しい生活様式」が提唱されたことをきっかけに、むしろお葬式や法事がドンドン縮小されていくこと、コミュニティのお祭が立ちゆかなくなっていることをどうすれば良いのか考える、ちょうど良いきっかけになるのではないか…。私はそのように考えています。政府から「アレをやってはいけない」とか「これは自粛しなさい」とか「これを縮小しなさい」と言われることを、ただただ受け止めるのではなく、われわれのほうからこの時代に打って出る。つまり、私たちの「新しい生活様式」を提唱する必要があると私は思います。では、それは何なのか。先ほど申し上げましたように、私は宗教に大変強い関心を持っていたんですが、紆余曲折を経て、今は宗教の周辺をウロウロしている宗教関心層として、大学で宗教を教えている人間です。ですので、不遜な言い方になりますが、そのきっかけ作りを、宗教界の先生方と一緒に考えていきたいと思っています。

東日本大震災の被災地から学ぶ新しい宗教のかたち

もったいぶる訳ではないのですが、実は同じようなことが東日本大震災でもありました。「東日本大震災の後にお墓が流されてしまってお葬式ができません」とか「お神楽の衣装や道具類が流されてしまって、神楽ができません」と、冠婚葬祭やお祭ができないといったことがさまざまな所で叫ばれていました。今、被災地はどうなっているのか。次々と新しいお祭、新しい追悼の形が東北で始まっています。皆様にそのことを、いくつか写真でお見せしたいと思います。例えばこれは福島県いわき市ですが、もう法要の場所はお寺ではないんです。お寺ではなく、多くの方々が亡くなった海岸でこそ法要をしたい。そういう思いから福島のあちこちの海岸で、NPOが主催する法要のイベントが定期的に行われています。また、福島には「じゃんがら」という郷土芸能、民俗行事がありますが、それが伝わっていって沖縄でエイサーになったと言われています。そのエイサーの方々が定期的に福島を訪れて、「自分たちのルーツは福島なんだ」ということで、この「エイサーとじゃんがらで追悼法要」を、市民が自分たちの手で行うような機運が被災地に広がっています。

この写真は高校3年生の子たちが「自分たちの先輩たちを追悼したい」と、福島県いわき市を中心とする念仏民俗行事であるじゃんがらのサークルを作って、「お盆にいわきの駅前で先輩の魂を慰めたい」と、高校生たちがじゃんがらを踊っている様子です。さらに団塊の世代の親父さんたちは「自分たちはもう御神輿は担げないけれども、子供たちの御神輿をどうやって迎えようか。かつて小名浜漁港でたくさんの鰹船が戻ってきて鰹御殿と呼ばれるような大漁旗が舞ったじゃないか。倉庫の奥にしまわれていたその大漁旗を掲げて、子供たちの御神輿を迎えよう」と、新しい神社の祭礼のあり方を模索されていました。また、市民の「宗教抜きの追悼行事」が行政と共に行われていたりします。

私は被災地を歩かせていただいて、本当に涙する場面が多々ありました。それは、求道的宗教者のようなボランティアの人たちとの出会いです。例えば、気仙沼にある会社、オイカワデニムの及川秀子さんという社長さん(当時)に会いに行きました。彼女は立派な社長宅があるにもかかわらず、仮設住宅に住んでおられました。「何故、社長宅があるのに仮設住宅に住んでおられるのか?」と尋ねたところ、「私はすべての仮設住宅の人が居なくなるまで、仮設住宅に住む」と、自分の家が流されていないにもかかわらず、仮設住宅で苦労を共にして居られました。「何かご信仰でもあるのか?」と尋ねましたが、宗教には関係ありません。けれども私には、この方が菩薩のように見えました。他にも、自分の全人生を投げ打って移り住んで、一からワインを作っている若者。また、百姓の経験はまったくないにもかかわらず、田んぼアートで30万人の人を呼ぼうと発願して人々を呼び入れているような人。この方は、福島第1原発の廃炉作業員として、言葉は悪いですけれども最下層の日当1万5,000円で働いていた人が、飲み屋の店主に「明日、帰る(福島を離れる)から」と告げたところ、その店主に「帰るな」と言われて「じゃあ、残る」と言って、アルバイトをしながら、「田んぼアートで30万人を福島に呼ぼう」と、たった1人でやっているような方です。これは一時全域避難となった福島県川内村ですが、ここはかつて木炭の生産量全国一を誇っていました。ここは未だに放射線量の関係で炭を出荷できず、かつての炭焼きは全滅しました。そんな中、1人で埼玉からやって来て、炭焼きの釜に火をくべているような方。そういった求道的なボランティアの方に出会います。私はこうした新しい追悼、新しい慰霊の形、そして宗教的とも取れるような人々が被災地で活動する様を見てきました。そこには新しい生き方や、新しいものの決め方や、新しい感じ方、ライフスタイルや合意形成や新しい価値観が震災の後に被災地で生まれました。そしてそれは被災地に留まらず日本全国にそうした動きが広がろうとしています。

東京ではこうした被災地の動きがビビッドに伝わってきます。ここから何か学ばなければならならという機運を、私などは東京で強く感じています。

表面的ではなく本質に迫るのが宗教の役目

では、このコロナ禍の後に、新しい生き方や新しい感じ方が生まれてくるのだろうか。むしろそのことを宗教に関わる者は鋭くキャッチして発信していかなければならないと思っています。政府は感染症対策として「手を洗いなさい」、「三密を回避しなさい」、「冠婚葬祭は縮小しなさい」、「テレワークしなさい」と言います。しかし、それらはいずれも上辺だけ、表面的、形式的なことです。そうではなく、そこにある本質とは何かというと、人間と人間との距離とは何なのか。「三密を回避」と言うけれど、他者への配慮とはどういうことなのか。「冠婚葬祭を縮小しろ」と言うけれど、生きるとは何なのか。人を看取るとは何なのか。そもそも「いのち」とは何なのか。そして「テレワークをしなさい」、「働き方改革しなさい」と言うけれど、われわれが自由に電車に乗って自由に働いたりすることのできる、この「自由」とは何なのか。ここに目を向けることが、私たちの「新しい生活様式宣言」だと私は考えています。

ひとつひとつ見ていきたいと思います。政府は「身体的距離を取りなさい」、「手洗いをしなさい」、「県をまたいだ移動はやめたほうが良いですよ」と言いますが、それは形式的なことであって、むしろそれらの背後にあること…。それは、われわれは何故会いたい人に会えないのだろうか。日本国内はほとんど鎖国のような状態になり、日本だけでなく地球上どこの国も没交渉になっています。このように分断されているからこそ、離れた人に対する気持ちの伝え方にわれわれは目配りをしたいと思っています。それは「三密を回避」というような表面的なことではなく、思いやるとはどういうことなのか。マスクをするとはどういうことなのかといったことに意識が向いていきます。

今、ネット上を見ると心ない差別であるとか、根も葉もない噂などが山のように出回っています。多分、江戸末期の人も大正時代の人も、不安でいろんな噂話をしたり、苛立ったりしたのでしょう。そういう苛立ちや不安を、どうすれば広めることなく相手を思いやることができるのか。こういった他者への配慮に、表面的なことではなく、本質的なところにわれわれは結びつけていかなければならないと思います。「冠婚葬祭は小規模で」と言います。しかし亡くなっている方が居られます。大切な人を亡くされた方が居るという現実が一方にあります。そういう(大切な)人を看取る、送る、思慕するとはどういうことなのか。また「居酒屋へ行くな」と言いますが、われわれが食べたり飲んだり歌ったり喜んだり、そもそも生きるって何なんだろうか。そこからこの問題を捉え直したいと考えています。

「テレワークしなさい」、「オンラインにしなさい」と言います。これはとても不自由です。けれども私はこんな風に考えています。社会には、そもそも不自由な人々が居ましたよね。満員電車に乗れない車椅子の人、ホームから転落する危険にさらされている目が見えない方って居られますよね。まさにわれわれは今、そのような立場の人々になるきっかけを頂いていると考えています。動き回れないことは確かに不便です。けれども、その不便さを味わってきた人は、これまでも居た訳です。「ステイホーム」と言います。けれども家に帰れない人も居ます。ステイホームやテレワークを、そういう方々に気持ちを寄せるきっかけに変換していきたいと思っています。

10年前、「無縁社会」とNHKが名付けました。その時にNHKをはじめとするマスコミは、「宗教に可能性があるのではないか」とずいぶん言いましたが、今ではすっかり忘れ去られています。今こそ、10年前にNHKが言及した「縁」とは何なのか。その「縁」とは、私と他者。私と社会。直接手の届かない所に居る、普段は出会えないところにいる社会。そして、宇宙。その関係を見直すような力が、われわれが持っている霊的な力に備わっていると思います。新しい生活様式は、表面的、外形的なことを言っています。しかしそうではなく、私たちが感じることのできる新しい霊的な力こそ、宗教に心寄せる人間が発信していかなければいけない。このように私は考えています。

大変お立場のある、そして私よりずっとご見識のある先生方を前にしてこのようなことを申し上げるのは恥ずかしい限りでございます。むしろ、このようなことを考えているので、先生方からご教示いただきたい。そういうつもりでお話しさせていただきました。どうも有り難うございました。

(連載おわり 文責編集部)