「アラブの春」の一周忌

12年1月14日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ 外交官はタクシーに乗れ

  後に「アラブの春」と呼ばれるチュニジアにおける「ジャスミン革命」(註:ことの発端は、2010年12月17日、チュニジアの一地方都市の街頭での青果販売をめぐる警官とのトラブルに抗議して26歳の青年が焼身自殺を図った事件が、アラブ世界においても急速に普及しつつあったFacebookやTwitterやYouTubeといったソーシャルメディアを通じて瞬く間に人々たちの間に広まり、抗議のデモがチュニジア各地で勃発し、若者の高い失業率や政権の腐敗への全国的抗議行動となった)で、23年の長きにわたって独裁を続けていたベン・アリー政権が、あっという間に脆くも崩れ去って(註:抗議デモ発生当初は、警察力で鎮圧しようと試みたが、巧く行かないと見るや懐柔策をとって、責任閣僚の更迭等でことを納めようとしたが、既に手遅れとなって、自己の次期大統領選不出馬表明も受け入れられず、ベン・アリー大統領が1月14日にサウジアラビアに亡命した)丸一年が経過した。

  因みに、日本政府は、この“革命”の勃発する直前の12月11〜12日に、首都チュニスにアラブ各国のエネルギー政策担当閣僚を集め、前原外相・大畠経産相(当時)らが出席して、「日本・アラブ経済フォーラム」なる国際会議を主催し、太陽光発電などの自然エネルギー開発等の開発協力を表明したが、直後に起こった“革命”によって藻くずと化したことは言うまでもない。というか、日本の外交官たちは、「革命前夜」のチュニジアに居ながら、どうして、民衆の間に蠢いている革命の気運を捉えることができなかったのであろうか? それほど、彼らが無能であったのか? 1998年にインドネシアのスハルト長期独裁政権が崩壊した時も、その直前に橋本龍太郎総理がノコノコと出かけて行き、スハルト大統領とにっこり笑って会談している。その直後にスハルト政権は崩壊した。日本の情報収集力はどうなっている? その辺りの経緯は、拙論『女帝:アジアにおける安定装置』をご一読いただきたい。

  私はよく海外で、日本政府の関係者(外交官や、国際会議に出席するため各省庁から派遣された官僚たち)をよく見かけるが、彼らからは決して、「現地の民衆の間に入ってちょっとでも民情を把握しようとか、彼らに直接影響を与えよう」という気持ちが微塵も感じることができない。いつも、当事国のカウンターパートとしか会おうとしないし、空港でも、現地大使館等が用意した出迎えの車に乗ってさっと目的地(ホテル・大使館・会議場等)へ直行してしまう。私は提言する。「本来は公共交通機関を使え。最低でもタクシーに乗れ!」と…。公共交通機関では、庶民の暮らしぶりをよく知ることができるし、彼ら同士の会話の内容を聞くこともできる。タクシーに乗れば、目的地に到着するまで運転手と他愛もない話をしながら、その国の世情(例えば、「今、何が流行しているか」等)を知ることができ、会議でいきなりその話題に触れ、相手国のカウンターパートに対して「俺はお前ところの国の世情にも詳しいぞ!」とハッタリをかますこともできる。それに、ほとんどの国では、タクシー運転手は移民が最初に就く仕事のひとつなので、その国のマイノリティーや下層階級の人々の生活レベルを知ることができ、革命等の不穏な社会情勢の萌芽を察知することができる。出迎えの車に乗るということは、みすみすそのチャンスを逃すということである。


▼ 独裁者にとって「広場」は諸刃の剣

  さて、話を本題の「アラブの春」に戻す。その後、この新しい時代の“革命”は、北アフリカや中東各地の長期独裁政権国家に次々と飛び火し、各国の支配者たちを慌てさせた。中でも、一番のとばっちりを受けたのは、「アラブの盟主」を自認するエジプトである。ベン・アリー大統領が亡命した当日(1月14日)、カイロのチュニジア大使館前でデモが始まり、焼身自殺を真似る者も出てきて、この“革命”は瞬く間にエジプト各地に飛び火し、30年に及んだムバラク独裁政権が1カ月も経たない2月11日にあっけなく崩壊した。いずれの“革命”も、民衆の側の伝達手段として広範囲にソーシャルメディアが利用され、ネットを通じて世界中の人々がオンタイムで起こる出来事の目撃者となったという点であるが、チュニジアの場合と一番異なるのは、チュニジアでは、民衆の内から澎湃(ほうはい)として湧き起こった「中心なき革命」であるのに対して、エジプトの場合は、この“革命”を利用して、ムバラクに取って代わろうとした勢力が入れ替わりあったことと、何よりも、この革命の象徴的場所として「タハリール広場」という“聖地”があったことである。独裁国家には、権力者が自国民と世界に対して、国威発揚と自らの権力の凄さを見せつける装置として、何万人もの人々を動員することができる「広場」がつきものである。ロシアの赤の広場、中国の天安門広場、北朝鮮の金日成広場しかり…。だから、革命が起こるときも、独裁者の権力の象徴であった「広場」がその舞台となる場合が多い。エジプト革命の場合は「タハリール(=解放)広場」である。

  この広場に、ソーシャルメディアによって呼びかけられた数多くの民衆が集まり、一種の「解放区」状態が現出した。文字通りの「タハリール」であった。ここでは、奇妙な現象が見られた。日本人の感覚からすると、世界中のほとんどの国で、不特定多数の人々が集まる場所というのは、たいてい「汚い」ものである。何万人もの人々が広場や公園の一角で寝泊まりする(占拠する)のであるから、彼らの飲み食いした跡や適当なものにペンキで書き殴られたスローガンなどが辺り構わず散乱するからである。しかも、エジプト人たちは、日頃はそのような混沌に対しては極めて寛容であるが、「解放区」たるタハリール広場では、これを占拠している民衆たちが自ら掃除をして、自分たちはどこの馬の骨か判らないような反体制不満分子ではなく、正当な権利を秩序だって正当な手段で主張しているのだということを、ここに取材に来る世界中のメディアに対してアピールしているのである。この様子を見て、私はエジプトの無血革命は成功するなと思った。

  当然のことながら、独裁者たちは、不特定多数の民衆が一箇所に集まることを恐れる。何故なら、彼らは、密告制度を整備して相互に民衆を監視させて、あるいは、「このようなこと(公然と独裁者の行為を批判すること)をしているのは、自分だけかも知れない?(見つかったら厳しく処罰される)」と民衆に思い込ませて、自発的に反政府活動を抑制させるシステムを構築している。そのためには、新聞やテレビ等のメディアを独占・支配し、民衆には自分たちにとって都合の良いことしか見せない「大本営発表」形式をとっているところがほとんどである。北朝鮮なんぞは、通常のテレビの受像器ではどこの国の電波が入るか判らない――自分たちに都合の良いフィクションがバレる――ことを恐れて、北朝鮮国内にあるすべてのテレビ受像器をケーブルテレビに代えてしまったくらいである。また、屋外で3人以上の人間が一緒に行動すれば、「不満分子が徒党を組んでいる」と見なして、厳しくこれを制限している。だから、当然、北アフリカや中東の独裁国家においても、(政権側による「御用デモ」以外には)市民の集会は禁じられている。


▼ 「独裁者の排除」という同床異夢

  ところが、いかに独裁政権が強固であったとしても、それがイスラム教国の場合は、厳密な意味で、民衆の「集会禁止」を完全に実施することは不可能である。何故なら、彼らは毎週金曜日に、モスクへ集合して礼拝をしなければならないからである。毎週毎週、何千人という人がモスクで一堂に会し、「独裁者>人民」という関係が消滅して、「アッラー(神)>ムスリム(イスラム教徒)」という関係が再確認され、絶対者であるアッラーの前では、独裁者と人民は対等な関係になってしまう。だから、モスクでの礼拝時に、誰かが独裁者への不満を表明すれば、容易に暴動の火が点いてしまう可能性がある。エジプト革命もこのパターンで、ムバラク政権側が「アメとムチ」で、タハリール広場を占拠する民衆に相対したが、彼らの勢いは、金曜日毎に増加していった。だから、もし、イスラム教地域で独裁者になりたいのであれば、イスラム教をスポイルする方法を考えなければならない。事実、中国西部の新疆ウイグル自治区では、共産党政権が躍起になってイスラム教のスポイル化を計っている(註:チベット自治区でのスポイル化政策は、ダライ・ラマ14世をはじめとするチベット仏教側の反抗で、巧く行っているとは思えない)。これに失敗したのが、イランのパーレビ王朝(1979年のイスラム革命)であり、中央アジア地域のイスラム系五共和国(カザフスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタン・キルギスタン・タジキスタン)の独立によるソ連邦の崩壊(1991年)である。

  さて、チュニジアとエジプトで長期独裁政権が「ピープルズ・パワー」によって崩壊して丸一年が経過した(註:その石油資源を独占するため、欧米が軍事介入して半年間に及ぶ内戦化の結果、カダフィ大佐を排除したリビア革命の場合は、条件が異なる。本件については、『カダフィ大佐はなぜ今、排除されたか』をご一読いただきたい)が、独裁者を排除した後のチュニジアとエジプト社会は良くなったか? と言えば、答えは「ノー!」である。相変わらず、物価上昇も収まらず、若者の失業率も高止まりしたままである。そう、北アフリカや中東の社会が悪いのは独裁者のせいではなかったのである。彼らの生活習慣に依るところ大だったのである。しかも、「独裁者の排除」という一点で結集した民衆は、まさに「同床異夢」だったのであり、その後の彼らの目指すべき道はてんでバラバラであり、かえって社会に混乱をもたらせただけだったかもしれない。


▼ 民主化は宗教的少数派にとっては「凶事」

  中でも、看過できない事象のひとつが、宗教的少数派(マイノリティー)への抑圧である。独裁者は、自分以外の権威が存在することを嫌うので、特定の宗教宗派がドミナントな地位を占めることを嫌う傾向が強い。したがって、マイノリティーに配慮した政策を採ることが多い。ところが、「民衆革命」の結果、“民主的な”政権が成立すると、“多数派”たるイスラム教徒を優遇した「人気取り」政策を採ることになる。ところが、イスラム教という宗教は、日本人が考えるような、個人がその意思によって選び取る“宗教”ではなく、法制度も含めた社会全体がイスラム教でなければ巧く機能しない“宗教”なのである。一日に何回も「お祈り」で仕事が中断され、食べ物に何かと禁忌(タブー)のあるイスラム教は、社会全体がイスラム教でなければ摩擦をもたらすだけである。そこで、チュニジアでも、エジプトでも、民衆は政府に厳格な「シャリーア(イスラム法)」の適用を求めることになる。

  ところが、何十年もの「独裁政権」という「世俗化された政体」を経験した人々にとっては、熱心なムスリムでない人も居れば、キリスト教徒をはじめユダヤ教徒も(それ以外の宗教も)少数ではあるが居る。一般に「イスラム教国」と思われているエジプトには、人口の10%はアレクサンドリア(アラビア語ではイスカンダル)を総本山とする「コプト正教会」の信者である。コプト正教会というのは、ギリシャ正教会やローマ・カトリック教会が受け入れている5世紀の中頃、帝都コンスタンチノープルの近郊で開催された「カルケドン公会議」の信条を受け入れていない古いキリスト教の一派(他に、エチオピア正教会・シリア正教会・アルメニア使徒教会がある)である。彼らが、「革命後」の自由化されたエジプトにおいて多数派たるイスラム教(スンニ派)の民衆から教会や住宅を焼き討ちされたり、多くの弾圧を受けているのである。「アラブの春」は必ずしも、人々に幸福をもたらせたのではないということを広く日本人にも知ってもらいたいところである。

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