第32回世界大会
高雄大会(2006年)
- 第32回IARF世界大会関西地区事前学習会記念講演
- 物故功労者メモリアル
- 三宅龍雄金光教泉尾教会長追悼式
第32回IARF世界大会
関西地区事前学習会記念講演
『台湾先住民の歴史と現在』
関西学院大学社会学部 教授
山路勝彦
IARF日本連絡協議会では、世界大会が開催される年には、関西と関東に分かれて、世界大会に参加する人々を対象に、大会開催国の歴史・文化・社会・宗教事情等に精通した研究者を招いて話を伺い、世界大会参加をより有意義なものにしてきた。今回は、泉尾教会はもとより、立正佼成会・椿大神社・一燈園・むつみ会・日吉神社から大会参加予定者約50名が集まり、わが国におけるジャイナ教研究の第一人者であられる奥田聖應和宗総本山四天王寺第百十一世管長をお迎えし、『インドにおける非暴力思想の歴史と現在』という講題で、ご講演をいただいた。本サイトでは、その内容を数回に分けて掲載する。
政治的話題になりだした原住民
初めまして、関西学院大学の山路と申します。台湾で開催されるIARF世界大会に向けての事前学習会ということですが、本日は、台湾にまつわる様々な歴史の中から、先住民に関するお話を中心にしていこうと思っております。本日、参加されている方々の面々を見ますと、多数おられるご年配の方は、私が申すまでもなく、(日本の植民地であった台湾の歴史について)ある程度知識をお持ちだと思いますが、若い方々は、おそらく台湾の歴史についてあまりご存じないのではないでしょうか? ですので、まずはじめに一般的な話をした後に、引き続いて「現在の先住民がどのような問題を抱えているのか?」という概略についてお話ししていこうと思います。
今回の学習会に先立ち、資料を用意いたしました。すでに皆様のお手元に配られている5枚綴りのプリントをご覧下さい。最後の5ページ目が、朝日新聞(2002年12月18日付)に掲載された台湾先住民にまつわる記事です。よく注意して見ていると、朝日新聞にはこういった記事がちょくちょく掲載されます。この記事に載っている蘭嶼(ランユ)島は、台湾の東南の沖合にある小さな島ですが、見出しに『小さな島の直接民主制――放射性廃棄物移転求め』とあるように、現代の様々な状況に端を発した問題が、まるで吹き溜まりのようにこの島を襲い、滞積していることを新聞が取り上げた訳ですが、こういった話を織り交ぜながら現代の先住民族が抱える問題を見ていこうと思います。
プリント4枚目をご覧下さい。上部に『タイヤル族に見る戦後の変化――アイデンティティの危機』、下部に『台湾における先住民運動の展開――再生への模索』とありますが、これはつまり、現在問題になっているのが「アイデンティティ」や「文化の再生」ということなんですが、まずそういった問題と絡めてお話をしていこうと思います。しかし、過去100年以上にわたる台湾先住民族の歴史は長い紆余曲折の過程を辿るのですが、そのひとつひとつの事象を踏まえていかなければ、今、資料4、5枚目で見たような問題は理解できないと思います。本日は詳しく触れるだけの時間はないので、少々概説的なものになるかと思います。
早期に漢化した平埔族
まず、1枚目と2枚目のプリントを中心に見ていきましょう。1枚目に『台湾のオーストロネシア(南島)語族』の分布図が示されていますが、この「オーストロネシア」という言葉は、例えば「インド・ヨーロッパ語族」や「チベット・ビルマ語族」といったような言語学者が用いる言語の分類用語です。そのため、あまり一般の方には馴染みがないかと思いますが、この第1図はそのオーストロネシア語族の一覧を示したものです。原図では、平埔(へいほ)族と原住民(かつての高山族)の2つに分類されていますが、「では、平埔族と原住民はどのように分けているのか?」というと、非常に複雑な問題を孕んでいます。
簡単に述べますと、台湾島には、数千年もの昔から先住民族が住んでおり、彼らは独自の文化を持ち、自分たちの領域を定めて生活を営んできました。しかし、数百年前に対岸――現在の中国の福建省や広東省あたり――から漢民族が大挙して攻め入ってきました。「鄭成功の時代だ」(17世紀中頃)と申し上げれば、ご存じの方も多い(註:鄭成功の活躍は、近松門左衛門人形浄瑠璃『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』の題材に取り上げられ、江戸時代から有名であった)かと思います。台湾を舞台にして、明の復興を企てたことで歴史に名を残したのが鄭成功ですが、彼がここ台湾に拠点を構えた後、大陸から亡命してきた漢民族らがやって来て(当時、台湾を占拠していたオランダ勢力を追い払って)住み着くようになりました。その時点から現在に至るまでは、まだたかだか数百年しか経っていませんが、この間は転換期として大きな意味があります。
すなわち、これは漢民族と原住民の混住を指しますが、一部の原住民は、次第に漢民族の文化に引き寄せられていきます。例えば、脂っこい料理を食べるようになるなど、日常のあらゆる面において漢族化が進み、言語の面でも次第に漢民族の言葉を話すようになっていったのですが、そういった人々を「平埔(へいほ)族」と呼び習わしております。この「もともとは原住民で漢族化した」平埔族は、おもに平地帯に住んでいるのですが、この台湾の地図のグレー部分が原住民の居住地域で、白い部分が平埔族の居住地域になります。とはいえ、この地域に実際住んでいる人口はというと、平埔族そのものはそんなに多くはありません。ほとんどが漢民族なのですが、この地図では、漢民族の分は含まれていません。
どんどん増えだした原住民
一方、山地に住み、昔から漢民族の影響も受けることなく暮らしている民族があります。もちろん、「昔から」とは言っても、ここ数百年の間に、その様相は劇的に変わってしまったのですが……。ここには、全部で九族(タイヤル、サイシャット、ブヌン、ツォウ、ルカイ、パイワン、プユマ、アミ、ヤミ)の原住民族の名前が挙げられていますが、彼らの居住地は、地図上のアルファベットと照らし合わせてご覧いただいたら、だいたいお判りいただけると思います。しかし、ここでひとつ注釈を付け加えねばなりません。
この図は、1997年に作成された『認識台湾(歴史篇)』という中学校のテキストから抜粋したものなんですが、もうそれからすでに9年の歳月が経っていますから、状況も大幅に変化しているんです。1997年の時点で認定されていたのは先に挙げた九族だけでしたが、それから、2001年にはサオ族が加わり10族、2002年にはクヴァラン族が追加されて11族と増え、現在では、クロコ族も入って12の原住民族が中華民国政府によって認定されています。この詳細は、4ページの『台湾における先住民運動の展開――再生への模索』をご覧いただくと、いつ、どの部族が認定されたのかお判りいただけます。この問題については、また後ほど触れたいと思いますので、今は概説的な話に留めたいと思います。
さて、日本が台湾を植民地化したのは、1895年の日清戦争の後です。歴史を辿って話を進めますと、いろいろなことに触れなければなりませんが、今日は時間が足りなくなってしまうと思います。ですので、今日はその中から2、3テーマを絞ってお話をしようと思います。まず、日清戦争後、どのような角度から原住民に関する研究がなされてきたのか? あるいは、部分的ですが、皇民化(日本人化)政策の下、原住民の生活がどのように変化していったのか等について述べてみたいと思います。
大日本帝国が人類学の発展に寄与した
1枚目のプリントの下部に、鳥居龍蔵という人の写真を載せてあります。この人は四国の阿波で生まれた人類学者なんですが、彼は小学校しか出ていません。勉強そのものは好きだけれど、先生と折り合いが付かずに退学してしまったようです。人類学が好きで、上京した後、当時有名な人類学者だった坪井正五郎(註:東大人類学教室の主任教授として、現在の自然人類学から、文化人類学(民族学)、民俗学、考古学までをカバーする幅広い研究を行い、特に「コロボックル説」の提唱や、弥生式土器の報告、人類学に関する啓蒙活動などで有名)のもとに弟子入りします。
彼(鳥居)はいろんな地に出向き、歩き回っています。まず、日清戦争が終結した直後の1896年に、台湾の南東沖にあり、原住民のヤミ族が暮らす蘭嶼島を訪ねています。それに続き、中国南部の雲南省の苗(ミャオ)族、満州、モンゴル、朝鮮、樺太と、訪れた土地は実に多様性に富んでいます。これをご覧になって、すぐにお気づきになった方もおられると思いますが、大日本帝国が植民地化政策を執った後を追いかけるように、彼は調査に赴いています。鳥居龍蔵は、人類学者ですが、同時に考古学者でもありましたから、様々な石器や土器の収集もしていました。
結局彼は、4度台湾の地を訪れたのですが、われわれにとって一番有益な記録となったのは、彼が台湾に写真機を持ち込み撮影した多くの原住民の写真でしょう。とはいえ、彼が持って行った写真機は現代のようなコンパクトなカメラではなく、ガラス乾板が用いられていましたから、非常に重く、また、せっかく撮影した写真も割れやすいものでした。
もちろん、助手が同行してはいましたが、難行苦行の調査旅行であったことには変わりありません。今日は、そのうちの3枚の写真を資料に取り上げてみました。この3枚は、すべてタイヤル族の写真です。タイヤル族が住んでいた場所は、台湾北部の山の中で、焼き畑農業で粟や陸稲(りくとう)を耕し、狩猟を営んでいました。左上の写真は、女性の機織(はたお)りの写真です。台湾の中でも機織り機は様々なパターンがあるのですが、日本の機織り技術とはずいぶん異なります。下の写真がタイヤル族の若い夫婦ですが、このような格好で、裸足(はだし)で暮らしていました。右の写真は人間の生首(なまくび)です。当時、タイヤル族では首狩りが行われていたのですが、鳥居龍蔵はそんな中に飛び込んでいった訳ですから、相当勇敢な人だったと言えるでしょう。
さて、この写真と関連した話になりますが、この女性が機織りをしている写真が表しているように、台湾の原住民社会においては男女の役割の性差(ジェンダー)がはっきりと区別されていました。女は機織りをして、男は狩猟や首狩りに行っていました。首狩りを行う動機はいくつか挙げられるのですが、東南アジアで見られるような「農作業の豊穣を祝う」といったことは見られません。むしろ、争いが起こった時に、自分の立場の正当性を立証するために、あるいは、成年に達し「自分も一人前になったのだ」ということを立証するために、敵対する部族の首を取ってくるんですね。ずいぶんと残酷な話ですが、これが男の仕事だった訳です。
皇民化政策の影響
こういった話をしていると、あっという間に時間が経ってしまいますので、次のテーマに移ろうと思います。2枚目のプリントをご覧下さい。昭和10年代に入りますと、台湾社会もずいぶん変化してきます。上半分の写真は、言語学者である浅井恵倫(あさいえりん)が撮影したものですが、場所は南投県仁愛郷親愛(バンダイ)村になります。皆様の中には「霧社(むしゃ)事件」(註:1930年10月27日に起きた高砂(たかさご)族(台湾原住民の当時の呼称)による抗日蜂起。日本の植民地政策に対する原住民の不満が爆発したもの。台中市に近い霧社 (現在の南投県仁愛郷)で、モーナ・ルダオを指導者として高砂族約1,500名が武装蜂起し、現地の日本人134名を殺害。台湾総督府(日本政府の最高統治機関)は全土への波及を恐れて精鋭部隊を派遣して、高砂族千余名を殺害して1月19日鎮圧。末期には蜂起側の200余名が抗議の集団自決をし、生き残ったのは婦女子および15歳以下の男子約230名だけという凄惨な抵抗事件)をご存じの方がおられるかもしれませんが、この親愛村はその近くになります。
左上の図1は、親愛村の全景図です。当時(1900年頃)、住居はまだ「家」と呼ぶより、むしろ「掘っ立て小屋」のような簡素な建物でした。図2は、当時の一般的な女性の服装ですが、それが昭和10年頃になりますと、図3の写真のように、皇民化政策の影響を受けて次第に日本色が濃くなってきます。(3番目の写真の)女性は、和服を着ており、男性は当時の警察官と似たような格好である青年団の服装をしています。食習慣においても、次第にみそ汁を食べ、鮭――彼らは塩鱒と呼んでいますが――を一番の好物として珍重がるようになります。当然、これは単なる風俗習慣の範囲に留まらず、「教育所」と呼ばれる学校でも日本語教育が中心に行われ、結果、日本語が広く一般的に話されるようになったのです。当時この教育を受けた現在7、80歳になるお年寄りは、今でも達者な日本語を話します。
5枚目のプリントに、蘭嶼(ランユ)島の海洋系先住民ヤミ族の話が出てきましたね。左側に記載されている2002年11月15日付の朝日新聞の記事をご覧下さい。見出しに『年配者の誇りと寂しさ・先住民の共通語』とありますが、「日本語が共通語としていかに浸透していったか」ということが書かれています。3段目に、戦前、島で日本語教育が徹底して行われた影響で、「今でも日本語が達者なお爺さんやお婆さんがいる」ということが書かれていますが、やはりこれは7、80歳の方までで、戦後世代である5、60歳代になると、日本語はあまり話せなくなってきます。
ご存じの通り、戦後は、大陸から(共産党との内戦に負けた国民党の)蒋介石が逃げてきて中華民国を建てたため、中国語(北京語)の教育が行われるようになったからです。そのため、戦後の世代は北京語が共通語になっておりますが、この話は4枚目のプリントを取り上げる際に再び触れると思いますので、今申し上げたことをちょっと記憶に留めておいて下さい。また、今の話は文中に傍線を引いてありますので、後ほどザッと読んでいただければ結構かと思います。
日本文化がかなり浸透していったタイヤル族の村ですが、今はずいぶん以前と異なります。2枚目のプリントの下部にある写真をご覧下さい。この写真は、私が2年前に撮影したものですが、上部の昭和10年代に浅井恵倫が撮った写真と見比べてみるとずいぶん違う。日本の農村に見られるような近代的な建物が並ぶ村に変化しています。こうした変化を踏まえた上で、これからタイヤル族の変化、とりわけ宗教について触れてみたいと思います。左下は、私が20年前にタイヤル族の調査を行った折に撮った写真です。上の写真は天主教(カトリック)のお墓です。お墓の形そのものは、大陸のどこでも見られるような漢民族のそれ(亀甲墓)と同じものですが、その上に十字架があるのが非常に象徴的です。その下の写真は、タイヤル族の村に行った際にある家の内部を写したものですが、祭壇の中心に十字架があります。コピーでは判りにくいかもしれませんが、左側に位牌があります。これも漢民族と同じような形式の物です。この写真も上の写真と同様の天主教徒の祭壇なのですが、漢民族の文化が押し寄せてきているのがお判りいただけるかと思います。こうして、現在の先住民社会は、日本時代(大日本帝国が統治していた時代)とは、ずいぶん異なって来ています。
こうしてキリスト教化した先住民
少し、台湾におけるキリスト教についてお話ししておきましょう。キリスト教は台湾に、ずいぶん古くから入っています。オランダが植民地統治した17世紀頃、東シナ海岸の平地(註:台湾島は、中国大陸に面した東シナ海側の島の西半分が平地で、太平洋側の島の東半分が急峻な山岳地帯を形成している)にシラヤ族という先住部族がおりました。現在、彼らは台南付近に居住していますが、今では「自分たちがシラヤ族だ」ということをほとんどの人が知りません。漢民族化が著しく進んだためですが、ちょっと見ただけでは漢族なのかシラヤ族なのか区別もつきません。しかし、17世紀頃はもちろんそんなことはなく、先ほどお話にでたタイヤル族のように、先住民族の暮らしを守っていましたが、そこへオランダ軍が来てキリスト教を布教しました。一時は相当な数までキリスト教徒が増えて台湾各地へと拡がっていきましたが、その後、(大陸で滅亡した明帝国の遺臣である)漢民族が大量に海を渡ってきたことにより、オランダ軍を駆逐。キリスト教は次第にその勢力を失い、今度は漢民族の民俗宗教である道教に組み込まれていきました。
では、日本が台湾へ来た時はどうだったか? と言いますと、キリスト教の伝道がなかった訳ではないんですが、日本統治下ではキリスト教の布教は基本的に禁止されていましたので、それ以上キリスト教が広まることはありませんでした。ところが、日本の敗戦後1950年代頃でしょうか、台湾の山中で新たにミッションとしてやって来た長老教(プレスビテリアン)や天主教(カトリック)の布教が本格的に始まります。4枚目のプリントの3『キリスト教の布教』をご覧いただくと、今申し上げたようなことがまとめてありますのでご参照下さい。
1950年代当時、中華民国がやって来て(註:蒋介石率いる国民党政府が台湾に都落ちしてきたことから)、政策の一環として、先住民族の中国人化が「生活改善運動」の名の下で盛んに行われました。義務教育は北京語で行われ、旧正月などの中国式の暦の普及が進み、中国的な清明節(註:4月5日。家族全員で先祖を祀る漢民族の伝統的な節日。日本の彼岸に当たる)などを広めることにより、台湾における伝統を改変してゆきましたが、他方、キリスト教の布教が本格的に始まり、浸透していった時期でもあります。
当初はキリスト教に対する悪口も多く、「麺包教」という呼び名――「包」とはパンのことです――がありますが、これはプロテスタントの牧師やカトリックの神父が、信者を集めるために食糧を民衆に配ったことを揶揄(やゆ)した言い方です。しかし、長老教や天主教は、台湾山中において非常に広く浸透してゆきました。キリスト教には様々な宗派が存在しますが、台湾にもいろんな教派があることはあるのですが、この2つの宗派が二大勢力となっています。
しかし、何故、長老教と天主教がこれほどまで台湾で拡がったのでしょう? この点に関してはもう少し触れてみたいと思います。いろいろな推測ができますが、そのひとつに先住民の集村の長老や親戚関係を利用しながら、主だった人間をターゲットとして引き寄せ、その一族を丸ごと天主教に改宗させてしまうといった戦略もありました。しかし、もう少し違った視点から「キリスト教の受容」を見ていきますと、以下のようなことが言えると思います。
4枚目のプリントに『キリスト教の受容と伝統的観念の翻訳』という見出しでまとめてありますが、これは主にタイヤル族における観念です。タイヤル族の神観念は、単純というか包括的というか……、例えば「オットフ」という言葉を日本語に訳しますと、「神、悪魔、霊魂、幽霊、妖怪」といった超自然的存在すべてを指します。それだけでなく、この言葉は「脈」や「運命」といった意味も表します。
こういった包括的な世界にキリスト教が入ってきた場合、本来、キリスト教とは「西洋語で書かれた聖書を持ってきて話す」訳ですが、最初の伝道者が地元の言葉を知っていたのか、それとも地元の若者たちが英語を覚え自分たちの言葉に翻訳したのかは判りませんが、非常に困難を伴ったはずです。英語のゴッド(God)やサタン(Satan)をどう訳したら良いのか? という問題を、彼らは当時通用していた言葉であるタイヤル語と日本語、そして新たに入ってきた北京語を使い分け置き換えたのです。ゴッドを指す「オットフ」や「上帝(サンリ)」やサタンを指す「魔鬼(モグイ)」は北京語から。日本語では「カミ」と「アクマ」ですね。タイヤル語では「オットフ(良い神)」「アケーフ オットフ(悪い神)」となります。こういった言葉は、整理しようと思えばできないことはないですが、一方でやっかいな問題もいくつかあります。
宗教における概念の翻訳という問題
例えば「愛(Love)」という言葉を例に挙げてみましょう。キリスト教の聖書においては、非常に大切な言葉ですが、これをタイヤル語に訳すとどうなるでしょうか? まず、プリント三をご覧下さい。このプリントでは、タイヤル族における伝統的な宗教観念について触れています。一番上のプサネック(Psaniq)は、「禁忌(タブー)」あるいは「してはいけないこと」という意味ですが、この様々な文脈で使われる言葉をひと言で要約しますと、「慣習法に違反すること」を指します。具体的には、変死体に触れる行為も異常な行為(=穢れに関わる行為)としてタブーに当たりますし、その下に書かれています「親族間における忌避行為」をも指します。これは「兄弟姉妹間において、性や生殖、情事に関わる会話をしてはいけない」また、「兄弟姉妹の面前では放屁、排尿、排便をしてはいけない」というものですが、これは姻戚関係にある義兄弟との間においても同様です。現在のタイヤル族社会は、そういった慣習法そのものが崩れてきましたから、若い世代ではそのことについて言う人も居なくなりましたが、戦前あるいは戦前を生きてきた人々にとって、このタブーの厳しさは非常に強い感覚として今なお強く残っています。
当時の話を聞きますと、兄妹が同席している前で「あなた方は夫婦ですか?」などと尋ねようものなら、それはもう大変なことでした。これは殴られても仕方がない話でしたが、それ以外に「鶏をつぶして(接待して)謝れ」といった言い方で相手に制裁を加えたりしたようです。また、例えば「妻が子供を産んだ」ことを義兄弟に報告しに行く場合でも、義兄弟間で出産の話をしてはいけません。では、こういう場合どうしたか? といいますと、それとなく相手に伝えたり隠語を用いることで、出産の事実を義兄弟に察知させるといったように、「決してその内容(出産=生殖に関わる話)を言葉で直接伝えてはいけない」というタブーが存在しました。
さて、このような厳格なタブー意識を持っていた社会は、戦後になって生活改善運動(漢化政策)の波に洗われ、伝統が崩壊していく過程で徐々に失われていきましたが、それはキリスト教が入ってきた時どのようになったか? という話へと移りましょう。4枚目のプリントをご覧下さい。キリスト教を受容していく際、先ほど述べた「愛(Love)」という言葉を、彼らの母語であるタイヤル語にどのように翻訳したら良いか? という問題が生じます。と言いますのも、英語における「Love」とは、「神学的な意味での愛」の他に「男女の恋愛関係」も含みますから、キリスト教をタイヤル社会に広める際、「愛(Love)」という言葉からそういった側面をそぎ落としていく必要があるのです。実際、この言葉が持つ意味に対して、「当時は大変、抵抗感を感じた」と聞きました。
では、どのようにこの「Love」という言葉をタイヤル語で表したかと言いますと、Ginoalo(直接的に相手に忠告すること)やGumoalo(子供など可愛がること)、あるいはShigonalo(かわいそうに思うこと)といった言葉に翻訳し、大人が子供に対して様々な場面で忠告していったのです。私は、キリスト教の教義すなわち聖書の内容についてあまり詳しくはありませんが、話を聞いていくと、台湾先住民への伝道にはこのような操作が至るところで行われており、それによってタイヤル族におけるキリスト教理解が進んでいったと思います。これは、主にプロテスタントの牧師さんやカトリックの神父さんといった、いわゆる「教養のあるエリート」が中心となって広め、徐々に一般民衆に定着してゆき、現在に至るまで彼らの宗教として息づいている訳です。ですから、台湾においてキリスト教は、50年から60年ほどの歴史を経て続いてきたと言えます。
原住民の発見
さて次に、もうひとつの宗教である長老教(プレスビテリアン)に関するお話をして、今日の話の締め括りにしようと思います。4枚目のプリントの下部に『台湾における先住民運動の展開――再生への模索』とありますが、1980年代以降の原住民運動というものがここに記されています。80年代と言いますと、台湾では蒋経国(蒋介石の長男)政権時代(1987年)に戒厳令が撤廃され、そして、初の野党である民進党の結成といった政治的な自由化が起こった激動の時代でした。そういった中、先住民も自分たちの主張を声高に言い続けるという行動が起こってきました。簡単な年表ですが、『台湾原住民族権利宣言』というパンフレットのコピーおよび『土地を返せ』という見出しで始まっているタイヤル族のお婆さんの写真が載っているコピーを回覧いたします。
1993年、国連における『国際先住民年』があり、それと前後して、原住民運動が盛んになっていったのですが、この運動は80年代から台湾でありました。この年表を見ますと、「1983年に台北で原住民学生が、雑誌『高山青』を発刊、1984年『台湾原住民権利促進会』を結成」といったことが書かれていますが、今皆様に回覧していますのが、この1984年の『台湾原住民権利促進会』の際の宣言文です。その内容は、「われわれは漢民族ではなく、昔から台湾に住んでいる民族だ」で始まり、「自分たちの伝統・文化を守ろう」と続きます。初期の運動においては、まず「自分たちの土地を返せ」という運動が盛んに行われていますが、これは日本が統治した時に台湾の山岳部の土地を国有地とし、もとから住んでいた台湾先住民には代わりとして保留地を与えたのですが、国民党の時代に「その代替え地として与えられた保留地を自らの土地として所有して良い」ということになりました。
しかしながら、すべての保留地は私的な土地として認められたものの、それ以外に彼らの先祖が昔から使っていた土地があることを訴え、返還を求めて起こした運動です。彼らは焼き畑耕作を行っていましたが、この農法は3年も経つと土地が痩せてくるため、次の土地を開墾しなければなりませんから、かなり広い土地を必要とします。また、彼らはまた狩猟・採集もよく行っていましたから、「山を駆けめぐる猪を追い、狩りを行っていたかつての先住民族の土地はもっと広かったはずだ。それを返して欲しい」と、土地の返還を求める運動へと繋がっていきました。
さて、ここで1点、皆様に注意を促しておきたい点があります。「台湾原住民権利促進会(原権会)」は、もともと台北にある台湾大学の学生たちが中心となって展開されていたのですが、この学生たちの多くは長老教の信徒でもあったのです。山から下りてきた彼らは山に自分たちの実家がありますが、山の家はだいたい長老教か天主教に属していましたから、長老教会もしくは天主教(カトリック)の教育を受けた人間たちが最初に原権会を起こしていったことになります。例えば『大同郷基督長老教会』云々と書いてありますが、この文字からも長老教会が運動を起こしていったことがお判りいただけると思います。本日は細かい部分は省略いたしますが、長老教会を中心とした原住民運動が起こって、自由化の流れの中で、さらに大きな広がりをもっていきました。その過程で様々な問題が浮き彫りになり、また、主張されるようになります。ここで、最初に紹介した5枚目のプリントに載せてある新聞記事をもう一度ご覧いただきたいと思います。
これは、ヤミ族の話題を取り上げたものですが、現在、台湾では原発の問題が非常に大きなウエイトを占めています。80年代、台湾政府は島民に知らせることなく、原子力発電後の放射性廃棄物の貯蔵場を蘭嶼(ランユ)島に造ったのですが、そのことを後に知ったヤミ族は大変怒りました。台湾の中心である台北からすれば、蘭嶼島は辺鄙な離島かもしれませんが、彼らヤミ族にとっては昔から住んでいる島であることに違いありません。これに類する抗議運動は、各民族で出てきますが、こうした運動がさらに大きな力となって、先住民運動そのものが高まっていきますが、これが80年代から90年代にかけての話です。これらの過程で、さらに様々なことが言われるようになりました。まず「原住民」という表記。これは私は思うに、中国語ではなく日本語からの借用だと思います。
「先住民」という言葉がありますが、これは遺跡物(過去の遺物)に関わって使われる言葉ですから、彼らは「先住民」と呼ばれることを嫌い、むしろ「もともと住んでいる」という意味を持つ「原住民」を使います。しかし、日本語としての「原住民」は、あまり品のない言葉ですから、われわれ日本人はそう呼ぶことに抵抗があるんですが、彼ら自身がこの言葉を用いていますから、台湾に関しては、中華民国憲法でも使われているこの「原住民」という表記を使用しています。それ以前にも最初のプリントで紹介したような「生蕃」や「高砂族」そして「高山族」といった呼び名が存在しましたが、これらはいわばよそから来た人間が付けた呼び名ですから、そのことを自覚した上で自分たちの呼び名を考えた時、「原住民」という呼び名を選んだ訳です。この名は1994年から憲法においても表記されるようになり、96年には「原住民委員会」というものができました。
原住民委員会が生まれた経緯
蒋介石が大陸から逃げてきた時、伴って連れて来た少数民族の委員会があったのですが、その中には若干名ながらモンゴル人やチベット人が含まれていました。この委員会は、大陸にいた時分に蒋介石が国民党の閣僚の中に「蒙蔵委員会」という、モンゴル人やチベット人を対象としたいわば政治工作するために設置した委員会です。しかし、台湾においては、モンゴル人もチベット人も極少数派でしかないから実情に合わない。むしろ委員会の設置が必要なのはわれわれ台湾原住民ではないかということで、彼らは「原住民委員会」の設置を要求し、1996年に設立したのです。そして、2001年にサオ族、2002年にはクヴァラン族、そして2004年にはタロコ族といった少数民族が原住民に認定されました。これらはどういった経緯で認定されたかというと、1枚目のプリントの第1図の出典となっている『認識台湾(歴史篇)』(歴史教科書)にあるように、日本が統治していた当時までは9部族でしたが、この9部族の分類そのものが、実は恣意的な面があったのです。
例えば、タイヤル族ひとつを取り上げてみても、多様な方言を持っており、互いにあまり接触したこともないような人々が同じ部族として認定されていました。もちろん、彼らは会えばタイヤル語で互いに意思の疎通は図れますが、日常的には付き合っていません。それに、そもそも昔の人は、自分たちをタイヤル族だという認識は持っていませんでした。そんな状況下に日本人の学者が入って研究し、「言葉や文化が同じだから同じ部族である。彼らの中に表現の違いがあるが、それは方言の違いであり、また、文化の違いは地域差である」とまとめてしまったものがその9部族だったのです。
しかし一方で、日本時代から位置づけが曖昧な部族もありました。9族の中にサオ族という部族がありますが、彼らは一時期台湾中部に暮らすツォウ族の一部だと言われたり、あるいは漢民族の影響を多く受けていて台湾語を話したため、原住民ではなく平埔(へいほ)族と見なされていた時期もありました。しかし、原住民運動を通して彼らも「やはり自分たちは昔からの原住民だ」という主張をするようになり、2001年になってようやくサオ族として認定された次第です。
また、タロコ族も日本時代にはタイヤル族の一部とされていましたが、彼らは「自分たちはタイヤル族とは自称していなかった」と長らく主張してきました。文化的にはタイヤル族と同じで、言語もタイヤル語として括れる程度の差異なのですが、意識の上で彼らは自らをタイヤル族だとは思っていなかった訳です。この「タロコ」とは、もともと集落の名称で、東海岸にある花蓮(ファーリェン)の近くにあるのですが、そこから取った名称です。
このように、様々な方面へと原住民の運動は広がっていったのですが、考えてみればかつての日本の統治に始まり中華民国の統治へと、実に100年以上、紆余曲折した歴史に翻弄されながらも、それぞれの時代に適応した彼らなりのやり方で今日まで生き延びてきたのです。そして現在は、そういった歴史の流れの中で自分の立場というものを中心に捉え直していく試みをもとに原住民の運動が広がっています。
そろそろ1時間経ちますので、今日はこのあたりでお話を終えようと思いますが、このように台湾原住民は、非常に複雑な歴史を辿った人々です。これから先5年、10年と経過するなかでも、いろんな過程を踏むと思いますが、われわれ日本人と身近な歴史を共有していたこともあったのですから、私はもう少し見ていきたいと思っています。皆様も今日お話ししたような角度から、台湾に関心を持っていただければ、私としても幸いです。本日は有難うございました。